なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(388)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(388)復刻版を掲載します。2007年3月のものです。この通信には、こ

のブログに掲載の黙想と祈りの夕べ参加者の発言だけでなく、ローズンゲンの1週間分と小メッセージを

日ごとの糧から入れていました。最初はボンフェッファーのもの、次にルターのもの、そしてナウエンの

ものから、通信発行の日のものを掲載していました。2007年3月4日からはナウエンのものを掲載し

ています。このブログが少し長くなりますが、今回からナウエンのメッセージも掲載するようにします。

味わっていただければ幸いです。


         黙想と祈りの夕べ通信(388[-23]2007・3・4発行)復刻版


 月曜日から火曜日にかけて大阪に行ってきました。9教区議長と有志常議員の集いが浪速教会であり、

そこに私も参加しました。教団の常議員会での取り組みについて意見交換がこの集いの主な目的ですが、

今回出席して改めて教団に内在する問題について考えさせられました。教団には教区が17ありますが、

それぞれの教区間には格差があります。そのために教区連帯資金を毎年集め、各教区に配分しています。

東京、西東京、神奈川のような都市部の教区は教区連帯資金を拠出しています。神奈川教区は今年度500

万円と聞いています。算定基準からすると700万円の拠出ということになるそうですが、神奈川教区とし

ては500万円しか出せないということです。本来約4000万円の教区連帯資金を各教区に配分するそうです

が、ここ数年は総額が少なくなってきているだけではなく、教区によっては未受洗者への陪餐をしている

ところとは一緒にできないということで、教区連帯から降りると言っているところも出てきていて、教区

連帯資金の抜本的な見直しを迫られているということでした。連帯のあり方が問われていると言えます。

教団の年金制度についても、謝儀が低く、教団の年金に加入できない教職も存在するようで、そのような

方々の老後の生活保障には殆ど手がつけられていないということです。教団年金は本来そういう教職に手

厚くなっていくべきではないかと思うのですが、現行の制度は掛け金の多い人に多くということで、基本

的にはこの世の企業年金と同じ制度になっているようです。私は教区連帯資金にしても年金にしても、問

題意識をほとんど持っていませんでしたが、常議員になってはじめて気づかされているわけです。教団が

教会であるならば、この世の組織とは違う福音的なあり方があってしかるべきだと思うのですが、残念な

がらそういう教団ではないようですので、自分のできるところはしていかなければと思っています。

 上記の私の発言に続いて一人の方から発言がありました。今の牧師の話を聞いて、聖公会やインマヌエ

ル教団の場合は全体教会として運営していて一体性があるように思われるが、教団の場合は合同教会とし

ての成立の事情からして連帯が難しいのだと思う。一つの教会でも互助ができているかというと、現在で

はプライバシーの問題もあり、なかなか難しい。教団も各個教会も兄弟姉妹であるということをもっと考

えなければと思っている。話は違うが、今日の聖句のように平穏な時には、神は救いの神で私たちを助け

てくださると思っているが、うまくいかないときには、本来そういう時にこそ神に祈り、神に願い求める

べきなのだが、自己責任ということで神に祈り願い求めることをしない自分がある。良い時でも悪い時で

も、どんな時でも神に近づいていく信仰をもちたいと思う。

 別の方の発言が続きました。先週の土曜日に教区総会があった。Fさんが提案者となって「『同性愛者

やその他の性的少数者』への差別をなくすための取り組みを進める件」が議案として出されていた。同じ

議案を常置委員会提案として教区総会に出すよう常置委員会に諮ったときには否決された。その常置委員

会である方が聖書の同性愛差別箇所を朗読して、同性愛者の方が傷ついたことがあるので、教区総会でも

この議案にどういう反応が返ってくるか心配していたが、時間がなくてすぐ議決し、可決された。総会で

は同性愛者のことがよく分からないのでこれから学んでいきたいという発言もなく多数の方が賛成した。

ただ差別をしてはいけないということでこの議案がすんなり通ってしまったのではないかと案ずる。自分

はマイノリティーの人たちから学んでいきたいと思って、本を読んでいるが、その人の痛みがどんなにつ

らいものなのかが自分にもよくわからないところがある。その人その人で違い、それぞれが抱えている傷

みが重く、見えないので、私たちの隣にそのような人がいても気づけない自分がある。また聖書が縛りに

なることがあるので、そのことも気をつけながら、ありのままでいいんだよと言って、共に生きていける

ような関係を築いていきたいと思う。

 もう一人の方からの発言がありました。今日の聖書の箇所(マタイ4:1-11)から、悪魔の誘惑とは下降

ではなく上昇の方向へ、つまり一見いいと思われることへと手招いていることを知った。私は忙しくなる

と、あれもこれもたくさんやることに価値を見いだし、結果や達成のみに心を奪われてしまいがち。物事

をすすめていく過程を見つめたり、人と共に作り上げていくことを楽しんだりすることを忘れていなかっ

たかと自戒した。黙想で心を落ち着け、自分を見つめなおすことは、私にとって不可欠である。教区総会

では、自分の(あるいは教会の)意見があまり出なかったり、出たとしても議論が絡み合わず、平行線で

あると感じた。難しいことだとは思うが、お互いがきちんと意見を出し合い、聞き合うことのできる関係

性を作っていくことの大変さと大切さを痛感した。        


 
           「神の完全な愛を映し出す」   3月4日


 神の私たちに対する愛は永遠です。神の愛は私たちが生まれる前から存在し、私たちが死んだ後も存在

し続ける愛です。私たちは永遠の愛の内に抱きしめられています。霊的な生活は、永遠の愛を私たち自身

に対するものとして認め受け入れるようにと呼びかけています。そうすることで、両親、兄弟姉妹、先

生、友人、夫婦、そして私たちの生活に関わりある人々すべてに対する私たちの愛が限界はあっても、神

の永遠の愛の反映、反射となるのです。どんな父親もまた母親も、子どもを完全に愛することは出来ませ

ん。どんな夫も、妻も、相手を限りない愛をもって愛することは出来ません。どこかに挫折のない人間愛

などありません。

 挫折のある愛が、私たちの持つことの出来る唯一の愛であるならば、私たちは簡単に絶望してしまうこ

とでしょう。しかし、挫折のある愛を、神の完全で無条件な愛の一部、その反映となるように生き、実践

する時、お互いの限界を許し、私たちが与えることの出来る愛を享受することが出来るに違いありませ

ん。

                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)