なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(237)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(237)」復刻版を掲載します。


        黙想と祈りの夕べ通信(237[-28]2004・4.11発行)復刻版

 4月4日(日)からの週は受難週です。黙想と祈りの夕べは今月から第一週はありまでんが、通常の第一水

曜日夜の祈祷会と受苦日の聖餐式と祈祷会がありました。水曜日の祈祷会では青年会のOさんがお話しし

てくださり、その後出席者みんなで祈りました。受苦日の聖餐式は一昨年から一つのパンを裂き、分かち

合って食べ、一つの器に入ったブドウ汁をその場で小さなグラスに分かち合って飲みます。その前に今年

はマルコによる福音書の受難の記事を七箇所分けて朗読し、一箇所の朗読が終わると、灯がともった七本

ローソクを一本ずつ消していき、イエスの死の場面の朗読後に、最後の一本のローソクの灯を消しま

す。そしてしばらく沈黙の時を持ちました。その後で聖餐式を上記のように執り行いました。私は司式を

し、イエスの受難の記事を朗読しながら、ゲッセマネの祈りを祈られたイエスのこと、イエスを裏切った

イスカリオテのユダのこと、ピラトや釈放されたバラバのこと、兵士たちに頭を葦の棒でたたかれ、唾を

かけられて侮辱されたイエスのこと、十字架を無理やり担がされたキレネ人シモンという人物のこと、イ

エスの両側に同じように十字架につけられた対照的な二人の強盗たちのこと、「わが神、わが神、どうし

てわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの十字架上での叫びのこと、そして息を引き取った

エスを見て、「この人はまことに神の子であった」と言ったと云う百人隊長のことなどを思いめぐらし

ていました。イエスの十字架の出来事はいつ想い起しても、その時その時に深い闇とその闇の中での不思

議な響きが聞こえてくるように思われます。

 4月4日の合同礼拝での私の説教は、最初にイエスの十字架につけられる福音書の場面をお話し、そし

て、ベトナムの男の子の絵を紹介し、その絵の説明をしました。私自身がヘンリ・ナウエンの『イエス

ともに歩む~十字架の道ゆき~』から学んだことですが、イエスがその生涯を全うすることができたの

は、「これはわたしの愛する子、わたしのこころに適う者」という神からの声だったというのです。無力

で弱い子どもだからこそ、そのような無力で弱い子どもを包む神のあわれみに触れることができるので

す。イエスは神の子どもであり続けることによって、その子どもを包む神のあわれみによって生きること

ができたのでしょう。ナイエンは言います。

「私たちも自分がひとりの子どもであることを知っている。どんなに外側を成し遂げた業績と成功で覆っ

ていても、心の底では自分も無条件に愛されたい、と叫び続けているひとりの子どもではないでしょう

か。そして、そういう私たちの内なる子どもと接触しなくなると、イエスとも、またイエスの属するすべ

ての人たちとも関わることができなくなってしまうのではないでしょうか。自分の内なる子どもに触れる

たびに、安全な場所を与えてくれる人はどこにもいず、ひとり取り残される怖れ、無力感に触れるので

す。

 イエスはわたしたちが自分の内なる子どもを取り戻すことができるようにと十字架のもとに倒れられま

す。内なるわたしの子どもとは、内なる場所。そこで自分はどうなることもできません。ただ引き上げら

れ、安心したい、という必死の思いがあるのみです。世界の見捨てられた子どもたちは、私たちの中にい

ます。イエスは恐れるな、と語りかけられます。私たちの心の中で彼らを向かい合い、ともに苦しめと。

拒絶と破棄のすべての感情を超えた向こうに、愛が、真実の愛が、永遠に続く愛があることを発見せよ、

とイエスは望んでおられます。その愛とは肉体をとらえたひとりの神、ご自身の子どもたちを決してひと

りにしておかれない方、その方から出る愛です」。



      「主の死による解放」(『ルターによる日々のみことば』より)


 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、 
 二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
                  
                                    ガラテヤ5:1


 キリストはわたしたちを人間の義務から解放されたのではなく、永遠の怒りから解放してくださったの

です。それはどこでですか。それは良心においてです。それがわたしたちの自由の限界であって、それ以

上に進むことはできません。それはキリストがわたしたちを霊的に自由にしてくださったからです。すな

わち、わたしたちの良心が自由となって喜び、神の怒りのくることをもはやおそれることがないという意

味で、解放してくださったのです。これこそまことの自由であって、だれもその価値の高さを十分はかる

ことができません。神がもはやお怒りにならず、また、これからも怒られることはなく、キリストのゆえ

に、今ものちも、つねに恵とあわれみにみちた父となってくださったと確信することの、驚くべき偉大さ

を、だれが十分にあらわすことができるでしょうか。神のみいつがわたしたちに恵み深いということほ

ど、あらゆる理解をこえた驚くべき自由はありません。

 そしてこのことから他の自由も生じてきます。すなわち、キリストを通して律法と、罪と、死と、よみ

と、悪魔の力から自由にされるのです。キリストがわたしたちを自由としてくださって、神の怒りはもは

やわたしたちをおびやかすことをせず、そのため、律法と罪も、もはや、わたしたちを訴え、罪に定める

ことがないからです。

                                      ヨエル書講解