なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(198)

 今日は「父北村雨垂とその作品(197)」を掲載します。

               父北村雨垂とその作品(198)
  
  原稿日記「風雪」から(その19)

 西欧哲学はその源泉を古代ギリシャ思想から始り、その中核をソクラテスからプラトン、アリストテレ

スへと流れ、次第に物心両面に発表し、その勢いのおもむくところ存、否の両極に紛糾、それデカルト

「コギト・エルゴ・スム」に至って一応落着したかにみえた。即ちカントの純粋理性、実践理性の精細な

理論をもみ、ショーペンハウエルの意志と表象の世界からニーチェの権力意志をなり、ツアラストラの生

態思想と発展、ベルグソンヘーゲルを生み、マルクスの唯物弁証法となり、一方フッサールからヤスパ

ースの現象理論としてハイデッガーの極限に近いと想わせる新傾向哲学と禅者のよく口にする「無」の思

想と絶対と云われる程の対照を形成して今日に至っている。そして実際それが合するとことなく依然とし

てそうした本流は、疎外された眞理のままに置かれた構造を形成しているかに見えるが、哲学はそれで良

いのかと究明されねばならぬであらうと攻撃の矢を向けられる事は必定であらう。

                            1984年(昭和59年)7月8日


 禅者の日常に観る世界はいつもぴちぴちと活躍している自然そのものであり、その自然像がそれであ

り、眞であり、その故に禅者のそれ自身がこの大自然の頁への一部であり、全の中の一頁であり、一部で

ある個で西欧の現象。

                                         笑くぼ


「眞実」に死んだ利休かソクラテスのえくぼ的哲学者ハイデッガーの指摘する世界内存在であるが、それ

は偶然言葉の上に於いての一致で、その表白した源泉の意識上に於いては全く天地の差があるものと考え

られる。


 粘華と笑窪 ソクラテスも利休も笑窪       1984年(昭和59年)7月9日


 西欧哲学はその殆どの哲学者が一種の伝統的或は系譜的現象によって意識が非反省的構造のもとに直観

を駆使して生成された論理の構造に近い性格に転落する缼点を生成してしまう可能性が現実的に表面にあ

らわれている。それが東洋に於ける思想殊にインドから中国へと展開された思潮、少しく精しく云えば、

達磨にはじまる中国の禅者は仏法による信と行による行動の基盤の上に駆使された意識の働きに生成され

直観によって把握した思想と云う結晶体とでも云うべき点に到達したものと、私は観ている。

                         1984年(昭和59年)7月10日


 ベルグソンは概念的には既に充分に個人が亦集団がハイデッカー等の現象論関係者が主張した世界―内

―存在を意識していた様である。それが彼の云うエラル・ヴィタール(生の躍動)、中公世界名著全集

ベルグソン』のp.308を中心に表白していることは評価できる。

                         1984年(昭和59年)7月11日


 忠犬に仮に時計を与えなば ― 神よ       1984年(昭和59年)7月18日


 ハイデッカーが指摘する「世界内存在」はその基礎的概念となっている存在論であるが、これが正しく

仏教殊に禅者が常に口にするところの平等と差別の中心概念であり、それが中心となったところの結論と

しての位置に昇華した体得である。そしてそれが西田哲学とその弟子達のいわゆる京都学派が指摘する無

の自覚的現象であり、絶対弁証法でもあると、私は理解せざるを得ない。

                         1984年(昭和59年)7月21日