なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(196)

 今日は午後3時から、私の裁判の第一回控訴審があります。私の方の控訴理由書に対する反論が記され

ている教団側から準備書面に目を通しましたが、それを読む限り、教団側は何が何でも私を免職処分にし

た手続きの問題には触れさせないぞという姿勢で貫かれているように思われます。未受洗者配餐をしてい

る北村は教憲教規違反で免職処分にした。もし教団教師に復帰したいのなら未受洗者配餐をやめて悔い改

めれば、復帰させてあげるから、そうしなさいと。

 さて、今日は「父北村雨垂とその作品(196)」を掲載します。

  
              父北村雨垂とその作品(196)
  
  原稿日記「風雪」から(その17)

 ベルグソンに限らず殆んど總べての西欧哲学者は広い意味に於ける現象を対象として観るに唯客観的に

観察することに追われ、その客観的状況を純粋意識に反応させてその素材であるところの原質を探求する

絶対要件に触れようと云う貴重な意識を喪失しているものと私には考えられる。

                          1984年(昭和59年)6月2日

 私が現象学的世界像の生成を「自然」という命題に於いて表現したのは従来の神学者をはじめ哲学者に

於いてさえそれに「神」と云う命題に於いて措定したこととはそれを内包する意味を生成する意識とは天

と地ほどの差異があることが理解できるであらうか。「無」或は「空」を主唱する達磨を始めとする禅者

の措定するコトバの意味が確かに「無」「空」に具体化、精しく云えば精神的に具体化した表現であると

確信をもって断言するものである。

                          1984年(昭和59年)6月6日

 宮城音弥博士はその著『人間の心を探求する』の中で「生きがいと生き方」についてブロイラーは死苦

期の幻覚と精神医学で扱われている脳に変化がある場合の幻覚の間にどんんな違いがあるか今まで分から

なかったが初めてその違いがはっきりしたと云ひ、それを一生懸命に語った。そして再び意識を失って死

の旅に旅立ったブロイラーにとって精神医学的研究こそ生きがいであって死ぬまで彼はそれを追求した。

しかしこの生きがいは最後まである目標を追求しようとする欧米人の生き方に関係がある。私はこのよう

な「生き方」を無視して「生きがい」の問題は考えられないように思われた。・・・・・このような生き

方の中には無意識的で機械的なものもあるけれども意識的に生活の目標となるものを決めていることが多

い。これが「生きがい」である。私にとってはコドモが生きがいだという人の場合も、コドモがその人を

支えているのであって、コドモが居なくなると生きていても仕方がないと感ずる。ふつう生きがいと云う

ときには、このような生きがいとするもの、すなわち生きがい対象のほかに「生きがいを求めたいという

欲求」および「生きがい感」ともいうべき感情をふくめるとして、氏は「いきがい」というコトバでこれ

らの三つの場合を混同するのは妥当ではないと云ひ、生きがいを求める欲求は生理的欲求などと同様のも

のかと云ひ、それは身体の中の不足を補い余分なものを身体から排出して平衡を維持していると措定し、

権力欲とか道徳的欲求のような社会生活に於ける欲求も人間の心の平衡を維持する働きであるとし、劣等

感をもつ人間は、これを克服しようとして権力欲を示すことが多く心の内部の動物的欲求にブレーキをか

けるために人間は道徳的欲求をもつ。

 先に性格の分類について述べた時私はレヴィンの「場」の考え方にふれたが、私はレヴィンの心理学は

人間を忘れたもので、数学的概念を使った人間の行動を説明するだけで新しいものは何も生み出さない不

毛な心理学だと考えている。・・・・・・キャノンのホメオスタシスの概念、つまり生体内部には、つね

に平衡を維持し恒常を保とうとする見方を正しいとしながらも、生物は単に平衡を保とうとする許りでな

く平衡を破ろうとする側面をも持っているのではないか。ホメオスタシスだけでなくトランジスタシスつ

まりベルグソンの云うエランヴィタール(生の飛躍)を認めなくてはならないのではなからうかと提案

し、成長はトランジスタシスであると結語している。そして多くの心理学者はエランヴィタールといった

考えを形而上学的で科学的でないとするが、私は科学主義者といわれながらもこの考えを無視できないと

思っているし、生きがいを求める欲求のうちには、これを認めるべきだと考えていると断じ、生きがい感

は感情状態であるが既に述べた様に私は感情を「価値づけの態度」と定義した。・・・・・・快と不快と

いうものは「その刺激は都合がよい」「それは具合が悪いぞ」というサインだとして、快・不快はもっと

も単純な「生きがい感」だと云っている。但しそれは必ずしも絶対的ではない。快を与えてもときには不

快を引き出すこともあると用心深く断っている。こうして科学的手法による心理学者も西欧哲学から別れ

た科学者としてもその客観的手法がこの優秀な心理学者を誤まらせていると云うことは結果的にみて歴史

的血液型とも云える「惰性」とでも云えるが、尚この外にも氏の著述に注目すべき著書がある。

                           1984年(昭和59年)6月9日


  手を振って 別離(わかれ)の現在(いま)を待つ 僕(きみ)や     1984年(昭和59年)6月12日