なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(219)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(219)」復刻版を掲載します。『ルターの日々のみことば』よりの

部分は割愛します。戦いを比喩にしたところがありましたので。


       黙想と祈りの夕べ通信(219[-10]2003.12.7発行)復刻版

 先週木曜日鎌倉のSホームの聖書を学ぶ集いに行ってきました。YさんがいなくなってからもSホーム

のお年寄りの方々の希望もあり、この集いの責任を続けて引き受けています。最初に私が聖書の話をし、

その後懇談の時を持ち、私の方からその時々に問いを出したり、近況報告をしてもらうようにしていま

す。話したくない人はパスしてもらっていますが、いつも殆どの参加者から発言があります。今回はアド

ベント前でしたので、教会歴を説明して、今が一年の最後だから、この一年を過しての感想などありまし

たらお話し下さいと申し上げました。今回の参加者の一人に最近Sホームに入所しました64歳の男性がい

ました。彼はずっと独身のアパート暮らしをしていたところ、髄膜炎を患い、一日半意識を失ってアパー

トにしたそうですが、たまたま訪ねてきた兄が玄関で声を掛けてくれたので、気がつき這って玄関を開け

て、助かったというのです。その後病気が治ってから、兄弟たちの強行な説得によってSホームに入所し

たというのです。病気を患っている人やお年寄りの一人暮らしの厳しさを感じさせられました。隣近所と

の日常的なお付き合いが無い状態で、しかも親類縁者も遠くにいる一人暮らしは、何かあったときには確

かに困ります。彼の兄弟たちの気持ちも分からないわけではありませんが、64歳というと、私より2歳

上の方ですので、ちょっとショックでした。一方90歳代の入所者を含めて、Sホームで生活しているこの

集会に出席されるお年寄りの方々は、口をそろえてSホームでの生活を喜んでいます。仲間がおり、衣食

住に困らない、笑いがあるなどがその理由に挙げられます。こういうSホームの姿はある種のコンミュー

ンなのかも知れません。千葉の館山にある婦人保養施設にも共通するものがあります。血縁によらなくと

も、同じ境遇にある者同士がサポートを受けての共同生活は、一人一人を生かす場なのでしょう。私たち

一人一人はそういう場を必要としている存在の弱さを抱えている者のように思われます。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今日は「女性と男性の共生を考える」学

びと語らいの集いがあった。礼拝ではAさんの歯切れのよい、的確なお話があった。足を踏まれる立場と

踏んでいる立場についての話があったが、踏まれるときは踏まれた者が痛いということを自分から言うと

いう習慣の方は、大分ついてきたと思う。今日分団で私が夫を呼ぶ呼び方がいろいろあるということを指

摘され、どこかで自分の足元が揺らいでいるのを感じた。自分が他者の足を踏んでいる場合、身近な他者

である子供や夫からは反抗されるが、遠くの人ほど、踏んでいても気づかない場合が多い。そのことに気

づくことが共に生きるために大切だと思う。声を挙げる人は分かるが、我慢している人のことを考えなけ

ればならない。性差別だけでなく、痛みを持つ人の声を聞くことの大切さを考えさせられた。何ができる

かわからないが、これからも自分の課題としていきたい。

 この日の黙想と祈りの夕べには、本当に久しぶりにMさんが出席しました。

 29日(土)夜に110周年記念ゴスペルコンサートがあり、30日(日)には性差別をテーマにした

学びと語らいの集いがありました。集会が続きますし、30日は雨でしたので、学びと語らいの集いの出

席者は少ないのではと思っていましたが、思ったより多くの出席者がありました。テーマ「女性と男性の

共生を考える」について、講師のAさんは全体会でコメントされ、セキュシュアルマイノリティーを踏ま

えますと、「女性と男性」という言い方も問題であるという指摘をされました。セキュシュアルマイノリ

ティーについての啓蒙は企業や行政の方が進んでいて、教会は遅れていますが、そこには教会における性

のタブー視が影響しているかも知れません。現実を直視することの大切さを感じています。