他者の言葉(2)
小山晃佑『神学と暴力~非暴力的愛の神学をめざして~』から
小山晃佑『神学と暴力~非暴力的愛の神学をめざして~』のp.54-p.55に、「五、キリストにおける最後
の審判の第一規準は何か」という表題で以下の記述があります。
【キリストにおけるこの最後の審判は(マタイ福音書25:32,23、25:31-46も参照)、何年何月何日に起
こるという具合にわたしたちのカレンダーに入るわけではないし、予定日があるわけでもない。しかし
「すべての国の民」という記述が示すように、裁きの内容とプロセスがここではきわめて具体的に示され
ています。その裁きの「決め手」というべきものは、わたしたちのカレンダーの中に入ってくるのであり
ます。どのようにか? と問われたら聖書はどう答えるか。ほかでもない、いつどこで飢えている人に食
を与え、のどの渇いている人に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の人に着物を与え、病気の人を見舞い、牢に
いる人を訪ねたか、ということです。すなわち、キリストにおける裁きは、わたしたちが「この最も小さ
い者」に、日常の生活でどういう態度をとったか、彼らをどう扱ったかという一点に集中しています。
厳かな最後の審判に「あなたはのどの渇いている人に水を飲ませたか」と問われるのでは、なんだか物
足りない感じがしませんか。これが「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」全宇宙の統治者である裁判
官の判断の決め手でしょうか。もっともっと大切な主題が出て来てしかるべきだと思うけれど。
だがここにイエス・キリストを信じたか、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けたか、尊い聖餐式に与
ったか・・・・十戒と使徒信条を唱えたか、主の祈りの内容を勉強したか、という問が一切出てこない。
あの難しいローマの信徒への手紙を研究したか、もない。教会の聖日礼拝や定例祈祷会に出席したか、と
いう大切なことにも触れていない。言い換えると、あなたはキリスト教徒か、イスラム教徒か、仏教徒か
という主題を飛び越えて、いきなり「(誰でもよい)あなたは裸の人に着物を与えたか」と問いかける、
恐ろしい単純さがある! すべての人をひっくるめて「のどの渇いている人に水を与える人」は神に喜ば
れる人だということが簡明に示されている! 以上のことは、普段ユダヤ人に見下されていたサマリア人
が強盗に襲われて瀕死の人を助けたというイエスの譬えを思い出させます。多くの親切な行為がキリスト
教会の外でなされているということは、神の豊かな恵みの現れであって、こうした事実こそキリストの教
会の感謝の主題でなくてはなりません。この最後の審判の集中的決め手は、「裸の人に着物を与えたか」
であります。】
最近この本を読みました。暴力ということでは、上村静『旧約聖書と新約聖書』にも、聖書の暴力性と
いうことが問題にされていました。暴力は有無を言わせずに他者を抑圧することです。イエスの福音は解
放の音信ですから、暴力とは対極にあります。そのイエスの福音によって生まれた信仰者の集まりである
教会が暴力的になるとすれば、その教会の福音理解にどこか歪みがあるからでしょう。神やキリストにし
ても、信条や教義にしても、自己正当化するために用いたりする危うさに敏感でありたいものです。