なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(220)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(220)」復刻版を掲載します。

      黙想と祈りの夕べ通信(220[-11]2003.12.14発行)復刻版

 説教をしながらいつも感じていることですが、言葉の問題があります。聖書の説明をはじめとし

て、私の説教の多くは説明の言葉になっていると思うのです。からだから語られる言葉には、なか

なかならないのです。いくらその説明の言葉が練られていても、からだを通過した言葉でなけれ

ば、説得力も乏しいと思います。からだを通過することと体験とは必ずしも同じではありません。

一人の人間ができる体験は限られていますし、どんなに深い体験をしたと言っても、そのような体

験は何度もできるはずがありません。却って体験を語る言葉がうわっすべりになってしまうという

こともあり得ます。からだを通過した言葉とは、本当にそうだと、心から信じて語られる信仰の言

葉と言い換えてもよいでしょう。アーメンと心から言える言葉です。イエスが語られた言葉や教え

や譬えは、当時のユダヤの人々にとってはそう難しい言葉ではなかったでしょう。むしろ、ある意

味では誰にでも分かる日常語で語られたのではないでしょうか。けれども、イエスの語られた言葉

には力がというか、溢れ出る命があったのではないかと思います。そしてそれを聴く者には、肯定

するにしろ否定するにしろ、決断が問われ、衝撃がからだを走ったのではないでしょうか。そのよ

うに思われてなりません。もちろん説教者はイエスではありませんので、イエスのようになれるは

ずがありませんが、説教において神の言葉が語られるとすれば、説教には何らかの形で聴く者を揺

り動かす命の力があるのではないかと思うのです。そのような言葉がからだを通過した言葉ではな

いでしょうか。少しでも説教において、そんな言葉を語ることができればと願っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。ちょうど今命ある言葉という話が

あったが、自分も同じようなことを考えていた。先週Aさんの説教を聞き、「情勢と男性の共生を

考える」集いを持ってから一週間経ったが、その間ずっと考えてきた。また水曜日の祈祷会のとき

出席していた一人の女性が祈りの中で、母として命を育む女は命を殺し合う戦争には絶対反対であ

ると言われた。…(中略)…Aあさんは「育児ができない男はいくじなし」と言われたが、出産の

できない男性とは命に対する想いが女性と違いがあるように思われる。村田基フェミニズム

国』(早川書房)では、現在の男女の役割分担を逆にした女と男に、男が女にという設定で、平等

にしていくために男も出産することができるようにする研究をする場面がある。どんなことも経験

しないとわからないものであるから、どんなことも逆の立場に立ち経験出来たら理屈ではなく、対

等な関係になれるのではないかとの想定であろう。その人の中から湧き出るものをその人自身が受

けとめ、それを言葉化することによって、命ある言葉が語られるように思う。そのような女の詫意

見から発せられた言葉を真剣に聞き、同じように男の体験から発せられる言葉を真剣に聞くことが

ないと、対等にはなれないと思う。よく女が、男には、痛みが分からないのは仕方ないと言って、

女同士が慰め合うことがある。そういうある種のあきらめで終わるのではなく、それぞれのからだ

から発せられる言葉を伝え合い、聞き合うことが大切だと思う。例えば井戸端会議の中で語ってい

る女性たちの言葉に、その人の思いが込められ、どきっとさせられる。注意して聞いていないと、

聞き漏らしてしまうことも多いのではないか。



       「かくされた王」(『ルターの日々のみことば』より)

   門よ、こうべを上げよ。とこしえの戸よ、あがれ。

   栄光の王がはいられる。     
                              詩編24:7

 ハレルヤ、アーメン。この全き栄光はかくされており、それゆえ、主に対して門は閉じられてお

り、だれも主を入れようとはしません。身分の高い人たちは、全力を尽くして主にたちむかいます

が、何の役にも立ちません。主は十字架の大能の君です。しかし、実はこの十字架のもとにこそ、

主の栄光はかくされています。

 「栄光の王はだれか」。これが、主がこられる時、発せられることばです。彼らは、「この異教

の人々を扇動するものはだれか」と言い、そのような名称でこの王を呼びます。栄光の王はだれ

か。彼らはこれらのことばを激しいあざけりをもって語り、この王に最大の侮辱を示します。主が

栄光の王と呼ばれるとは、なんと不合理なことでしょうか。

 しかし、キリストはきょうも、もっとも小さい主のしもべのうちにこられ、この世の最大の人の

所にもこられます。又、いやしめられた人々のうちにも、ほめたたえられている人たちのところに

もこられます。主の愚かさをもって、賢い人の所にもこられます。しかし、彼らは主を閉め出し、

戸を閉じるばかりか、主を追跡し、捕え、あざけります。彼らはきょうもキリストとそのみことば

に反対します。しかし彼らは決してそれにうち勝つことができません。なぜなら、キリストは万軍

の主だからです。主はきょうも栄光の王です。永遠に栄光の王としてとどまられ、天の万軍も地の

聖徒らも主に仕え、主を礼拝するからです。

                           詩篇の最初の25篇の講解