なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

他者の言葉(1)

 「父北村雨垂とその作品」がそろそろ終わりになります。残された父の原稿からしますと、後十回前後

ではないかと思われます。そこで、前々から考えていました、本や新聞その他で私が出会った「他者の言

葉」で、私自身が立ち止ってその言葉についていろいろと思いめぐらし、他者と共有したいと思ったもの

を、順次このブログで紹介したいと思います。第一回は、たまたまインターネットで「北村慈郎」を検索

して、そこをみていましたら(ナルシスト?)、私の著書『自立と共生の場として教会』についての書評

のような文章に出会いました。その文章は、私の姿勢を大変よくとらえてくださっていましたので、「他

者の言葉」(1)に転載させてもらいました。このブログの主の方、悪しからずご了承ください。


      ブログ「どこかあるところで、終わりなきままに」から


   北村慈郎『自立と共生の場としての教会』新教出版社、2009


 本書が、日本基督教団における「聖餐論争」と密接に関わるものであることは理解している。けれど

も、この文章では全力でそのことを無視し(傍から見ても、これは瑣末なことに終始し、「議論」になっ

ておらず、また政治的色彩の濃いものであるから)、この本を通して著者が何を言おうとしているのか、

また本書を読んで私が何に気づかされたか、それを述べたいと思う。

 その前に著者に謝らねばならない。「聖餐論争」最中のプロパガンダに見事に乗せられていたかつての

私は、著者の「開かれた聖餐」が何であるかをよく知りもせず、論争の文脈を詳しく知ろうともせずに、

著者を見下していた。それをまず謝りたい。ごめんなさい。

 本書を一読してまず印象に残るのは、様々な問いが絶えず問い続けられていることであり、それが紅葉

坂教会においても共有され、考え続けられていたということである。ある論件について性急に「答え」を

出すのではなく、その問題はどういうものであり、問題を捉える見方は適切なものか、他の観点もあるの

ではないかというオープンマインドな姿勢が全体を貫いている。それゆえ、著者の言葉の差し出し方には

力みがなく、自分と反対の意見にも耳を傾けようという柔軟さがある(もちろん、指摘すべきこと、主張

すべきことは明確に述べている)。

 こんなことを書くと、「正しい聖餐」を云々する方々が、「彼は北村に洗脳された」と考えるかもしれ

ない。しかし、そんな脅えきった中傷は笑止と言うしかない。ここには、恫喝や中傷を軽く受け流し、論

理に基づいて明瞭に自分の考えを述べ、他者に己の考えを理解してもらうために性急にならず時間をかけ

て言葉を発し、己の言葉が他者に届くためにはどうすればよいかを常に配慮している「大人」がいる。こ

のようなオープンマインドの姿勢はもしかしたら教団において貴重かもしれない。教会も世の中も「待

つ」ことのできなくなっている中で、著者は「待つ」ことのできる方であり、腰の据わった方である。

 著者の「場としての教会」という考えに、私は「街場の現代思想家」たる内田樹先生の姿勢を想起させ

られた。自分の置かれた場で、聖書を読み、現実の諸問題を考え、痛みや苦しみを共有し、自分が変えら

れていくということを実践している著者は「街場の神学者」である。

 パウロとマルコ福音書の提示する二通りの聖餐理解があり得るという指摘は目から鱗が落ちるものであ

った。それは聖書をどう読むかとも関わってくることであり、また、どんな聖餐のあり方を採用するかは

教会をどう考えるかと密接に関係しているという指摘も私が以前からそうではないかと考えていたこと

で、腑に落ちるものであった。そして、著者は、自分はイエスの聖餐理解を採用すると主張しつつも、パ

ウロの理解もあり得ることを排除していない。「私はこう思う。あなたの考えを教えてくれませんか」、

全体を通して、こういう姿勢を著者は堅持している。そういう迂遠な歩みを積み重ねることを通してし

か、世界に善きものをもたらすことはできない。

 歴史が教えるように、正義を一気に全社会的に実現しようとする運動は必ず粛清か強制収容所かその両

方を採用するようになる。歴史はこの教訓に今のところ一つも例外がないことを教えている。多分、著者

はそういう気鬱な出来事をご自身で体験されたのではないかと思う。

 日本基督教団は国家統制の戦時下で成立した。その問題を抜きにしては今後の教団はないと著者は繰り

返し指摘する。国家権力への屈従・内応によってできた教団というのは、この教団に属する全ての教会に

とって、喉に刺さった魚の骨のような、できれば避けて通りたいものであろう。けれども、それこそが教

団のアイデンティティを構成している。まずそこを直視すること、そこからしか問題解決の糸口は見つか

らないという著書の指摘はまことにその通りだと思う。

 読みながら、カミュサルトル論争を想起した。サルトルはきっぱりとした口調で、「歴史」の名にお

いてカミュに筆誅を加え、それによってカミュは孤立してしまった。「あの人の言っていることはとても

正しい。でも、何でかはっきりわからないけれど、何かおかしいんだよね」という感覚を「反抗」と表現

し、ためらい迷いつつも、己のなすべきことをしたカミュカミュの反抗に似たものを、著者も持ってい

る。著者は「煮え切れなさ」と表現しておられた。それを問いとして抱え、自分の与えられた場で務めを

果たしつつ、全身で考える姿勢はとても大切なことだと思う。加えて、著者は自分こそが絶対的に正しい

という態度は取らない。それは、「第3章 自分史との関わりで」で、「私と教団の正常化の人たちとは

同じ穴の狢である。意識の向く方向が違うだけである」という、自分をも突き放した見方から明瞭に読み

とれる。