なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

復活節礼拝説教(マルコ福音書16:1-8)

   「私たちのガリラヤとは?」マルコによる福音書16:1-8、
            
                       2018年4月1日(日)イースター礼拝説教


・最新の教団新報(2018年3月31日発行、癸苅牽沓后砲3月5日~6日に富士見町教会で開催されました教

団の宣教方策会議の報告が載っていました。その中に、この会議の主催者である米倉美佐男宣教委員長の

挨拶と石橋秀雄教団議長の講演の中に、教団信仰告白と教憲教規による教団の教会形成が強調されていま

した。

・聖書とイエスによってではなく、教団信仰告白と教憲教規によって生み出される教会とはどのような教

会かと言えば、私を戒規免職処分にした教団執行部によって作り出されている現在の教団のように、教勢

の拡張をめざす自己保存的な教会なのであります。ですから、現在の教団執行部がめざす上意下達による

統制的な教会の姿や受洗者を生み出すことだけがその働きであるかのような教会の働きに、疑問を持ち、

聖書とイエスから「世のための教会」「世に仕える教会」をめざす人も多いのではないかと思います。

・先日私の支援会の総会に群馬の前橋からいらしていただいた森野善右衛門牧師もその一人で、先生は最

近隠退されて、「時の徴」という同人誌やご自身で20年間関東教区の巡回牧師をされていたときに出して

おられた個人誌「上毛通信」に書かれたものをまとめて『現代に生きる教会 対話・共生・平和』という

本を出版されました。この本の中では度々私の免職処分のことに触れて、対話を拒む現在の教団執行部を

批判しています。そしてバルト・ボンフェッファーの線に立って「世のための教会」を強調されていま

す。それが、対話・共生・平和を造り出す現代に生きる教会ではないかと言われているのです。

・関田先生も森野先生とほぼ同じことを考えておられます。関田先生は、沖縄教区を切り捨てているとし

か思えない現在の教団執行部に対して、苦しんでいる沖縄の人びとの声に耳を傾け、それに応えるのが教

会の宣教ではないかと、度々おっしゃっておられます。

・このように教会が聖書から何を聞き、何を語り、どう生きるかという教会の宣教の働きについて、対照

的で、とても同じとは言えない考え方が、少なくとも私たちが属する日本基督教団という教会にはあるこ

とを、私たちは認めざるをえません。そのことは、新約聖書の時代の教会においても同じでした。3,4世

紀になりますと、正統と異端という問題が起こります。そしてローマの教会を中心にまとまった教会が正

統教会と主張し、他の様々な教会を異端として排除してしまいます。しかし、それまではイエスの福音や

教会について様々な異なる考え方を持つ教会が並存していたのです。

パウロは、コリントの信徒への手紙5章14節以下で、「わたしはこう考えます」と言ってこのように

語っています。<すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだ

ことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たち

が、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために

生きることなのです。/それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従っ

てキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません>(競灰5:24-16)と。こ

パウロの言葉からしますと、パウロは十字架にかかり復活したキリストが大切であって、肉のキリス

ト、即ちナザレのイエスの生涯の事績については、<今はもうそのように知ろうとはしません>と、関心

がないとはっきりと言っているのです。

・けれども、福音書を最初に書いたマルコは、ガリラヤからコルゴダまでの生前のイエスの働きに関心が

あってマルコによる福音書を書いたのです。マルコによる福音書の本文は16章の8節で終わっていると考

えられています。今日読んでいただいたイエスの復活の記事ですが、女たちが香油をもってイエスが埋葬

された墓に行った物語です。このマルコによる福音書の復活物語には、復活のイエスは出てきません。空

虚な墓と天使と思われる若者が、空虚な墓に驚いている女たちに語った言葉で終わっています。若者が女

たちに語った言葉は、こうです。<「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエス

を捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さ

あ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。か

ねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と>(マルコ16:6,7)。そして16章の8節で<婦人たちは

墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにもなにも言わなかった。恐ろし

かったからである>という言葉で、マルコによる福音書は終わっているのです。

・新共同訳聖書では、その後に結び一と結び二が付け加えられています。二つの箇所とも鍵括弧(〔〕)

でくくられています。これは後代の挿入を意味します。つまり後の時代の人がこの箇所をマルコによる福

音書に書き加えたところなのです。おそらく後の時代のパウロと同じようにイエスの十字架と復活による

神との和解を宣べ伝え、悔い改めを訴え洗礼へと招く宣教活動を中心にしていた教会がマルコによる福音

の終わり方に疑問を感じて、この結びの部分を付け加えたと考えられます。結びの部分には、イエスの世

界宣教への言葉があり、また、その後イエスは天に上げられ、神の右の座に着かれたと言われています。

・16章15節には<それから、イエスは言われた。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を

宣べ伝えなさい。信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われる。信じない者は滅びの宣告を受け

る。…」>とあります。また19節、20節には<主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右

の座に着かれた。一方、弟子たちはでかけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼ら

の語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった>と言われている

のです。

・しかし、マルコによる福音書の著者マルコは、14章27節以下の、イエスのことをペトロが三度知らない

と言うであろうと、ペトロのイエス否認の予告のところで、イエスにこのように語らせています。<イエ

スは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。「わたしは羊飼いを打つ。/すると、羊

は散ってしまう」と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行

く。」・・・>(マルコ14:27,28)と。この言葉を受けて、マルコは最後のイエスの復活物語である空虚な

墓の物語の中で、<あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこで

お目にかかれる>という言葉でその福音書を終えているのです。

・(以下は以前船越教会の礼拝で説教をしましたマルコによる福音書の当該箇所の説教と重複するところ

がありますが、お許しください。)

・女たちが墓で出会った出来事は、死者を葬るためにやってきた女たちの慣習的な行為を全く必要としな

くさせる出来事でありました。墓の入り口をふさいでいた「石は既にわきへ転がしてありました」。そこ

に「白い長い衣を着た若者」がいて、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエ

スを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と、女たちに語ります。その時、彼女

等が準備してきた香油も、彼女等が今為そうとしていた葬りの行為も、イエスの遺体がないわけですか

ら、対象を失ってしまいました。復活のイエスの前に、全く対象を失ってしまう行為というものがあるの

す。この事実は、私たちを不安にさせないではおきません。私たちが日常の生活でなしていることを、復

活のイエスによって吟味されるとき、何が残るでしょうか。何も残らないのではないか。死によって一切

が無になる行為を、それと知りながら、始めてしまった以上最後まで走らなければならないから、…仕方

がないのでしょうか。

・この世の生活には、何かこの得体の知れない死の力が支配しているのではないか。ニヒリズムは私たち

を孤立させ、結局人間はひとりぼっちなのだという想いをいだかせずにはおきません。そしてこの力が私

たちの生きざまをも左右するのです。

・イエスの復活は、私たち人間の経験的世界の中での、だれもが認識可能な出来事ではありません。それ

は強く信仰を求める出来事であります。見ないで信じる者は幸いであるというように。私たちが人間の知

見に基礎を置いているかぎり、イエスの復活は私たちの視界からは消えるでしょう。イエスの復活は、女

たちの行為=人間の可能性(善きもの)をよみするものとして終わるのではなく、むしろ人間の不可能性

(罪)~逃亡、裏切り~を服従に変える力であります。死の手前で、死がすべてをのみ尽くす無の力であ

るが故に、全てが相対的にしか考えられない私たちに、信仰は復活のイエスの光の中で歩むことを促しま

す。根本的な方向転換を求める出来事であります。

・この復活のイエスとの出会いを通して、もう一度福音書の発端からのイエスの出来事を読みなおしてみ

ますと、新しい光が投げ掛けられます。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(1:15、)

というイエスの宣教を示すコトバは、イエスの復活によって新しい招きとなります。イエスが、ユダヤ

社会の指導層から一貫して受け入れられなかったにもかかわらず、貧しい人たち、罪人や取税人たちと交

わり、病める者、悪霊につかれた者をいやして、町々や村々を巡り歩いたことが、復活の光の中で把らえ

直されるとき、死ではなく、神の生命が私たちを支配していることに気付かされるのです。

・その時、地上の生活は、死を待つ生活ではなく、神を待つ生活に変わります。私たちは、日々営々と生

きているわけですが、人間としての生活を維持するために、この世の組織の中で働いています。しかしそ

こではいつも旅人であり、寄留者であるという認識を持つ必要があります。神の国の実現成就の途上を生

きる旅人、寄留者なのです。イエスの復活は、再び来たりたもうイエスを待つ人間へと私たちを招いてい

ます。待つ生の模範は、地上のイエスの生涯において全き形で示されています。そのようなイエスの荷を

共に負う者として、私たちは復活のイエスと共に歩みたいと思います。

・マルコによる福音書に描かれている弟子たちは、イエスに対する無理解が際立っています。けれども、

復活のイエスによってもう一度ガリラヤから始めた弟子たちは、信仰をもってイエスに従って、生前のイ

エスの活動に参与していったに違いありません。対話・共生・平和を造り出す者として。これが、マルコ

が描く弟子たちにとってのガリラヤではないでしょうか。そしてそのガリラヤは私たちの身近な生活の中

にもあります。私たちの置かれている日常生活の場は、他者である隣人と対話・共生・平和を造り出す場

ではないでしょうか。

・主イエスがその場に今も立って私たちを招いておられることを信じます