久しぶりにこのブログに、「父北村雨垂とその作品(139)」を掲載します。今掲載しているのは、
父の川柳の句ではなく、随想日記の中に記されている文章です。芭蕉の俳句と西脇順三郎と詩との関係性
について書いているようです。
父北村雨垂とその作品(139)
原稿日記「一葉」から(その22)
俳諧歌仙と西脇順三郎の詩について(その5)
川研 1968年(昭和43年)11月に発表
二月だのに枯葉の音がする
税務署へ出す計算をたのみに
田園の坂の道をさすらった
夕陽は野薔薇の海で
街路をオペラの背景のように照らしている
おつ 先をよこぎるものがあった
これは有名な「豊饒の女神」の初めの一節であるが、行のうつりは、やはり「どこかで」と同じであ
り、まことに詩情豊かなものがある。行間にある匂ひや響きを十分味わっていただけると思う。
ここで西脇氏の詩論をみることにする。
先きにも申し上げた様に芭蕉は、いわゆる俳論として残したものはなかったらしい。西脇氏も立派な詩
人は余り詩論は書かなかったと何かの本に書かれていた様に記憶しているが ― 或はこれは私の錯覚か
も知れない ― 幸い本年始めに〈1968〉「詩学」と題して西脇氏が氏の詩論を出されたので、その
中から聴いてみることにしよう。
まづ課題の第一に「もしボードレールの説によるならば、ポエジーは超自然主義(トランセンデンター
ル)であって「イロニー」である超自然の世界というのは、想像の世界である。だからポエジーは、自然
や現実の世界であってはならない。それは「イデー」の世界と言われると書き起し、想像 ―イロニイ―
諧謔性 ―絶対的否定性―寂滅性―憂愁性と関連的に説き、また想像の世界が存在するためには、自然
や現実の存在がなければならないとして、これを円環的に説き、ポエジーは自然や現実であると同時に、
超自然であり超現実であるから、これは矛盾であるとし、ポエジイは矛盾であると結んでいる。また「新
しい関係に」於て「詩作の目的は新しい関係を発見することである」とし、ここで「諧謔でないものを諧
謔とすることは崇高な諧謔である」また「これをボードレールはイロニイと呼んでいる」。ここで云うイ
ロニイは常識的に考へている諧謔とは違うことに注意すること、そして諧謔でないものを諧謔に感じさせ
るのは芭蕉だけであると語り、
五月雨を集めて早し最上川
と凡兆の
長々と川一筋や雪の原
を比較して、後者の作品は諧謔は感じられないとし、
月の夜や石に出て鳴くきりぎりす
などは憐憫のために諧謔が露骨に出なくなった可憐な句であると激賞、詩としての諧謔の重要性を説き
つつ、新しい関係とは、有限の世界と無限の世界を連結して、そうした矛盾との関係に詩があるとみてい
る。
西脇氏の詩学は相当複雑に各方面から論ぜられているので、容易にその全貌を把握することは困難であ
って、いまは極く大雑把なものを記したところで、西脇作品と芭蕉俳諧についての考察に再び戻ることに
しよう。
(続く)