なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(32)

 先週は教団総会と私の裁判支援会「全国交流集会」があり、私のこのブログもその関係のものが多かっ

たと思います。教団総会では、一部の教区に、すべての議案の賛否が全員一致という現象が今回もあり

ました。今の教団執行部に批判的な発言には、耳を閉ざしていますし、人間的な感性があれば、この発言

には心動かすのではと思えるような発言にも、全く動きませんでした。もしかしたら、個別の関係では違

うのかもしれませんが、総会のような場では、何らかの監視装置が機能していて個人的な態度表明ができ

ないようになっているのかも知れません。この状況では、教団総会に期待や希望をもつことは当分難しい

でしょう。立場や考えが違っても、個別のつながりや有志の集まりをゲリラ的に持っていくことに、当分

は力を注いでいくということでしょうか。

 私の戒規免職および聖餐問題で言えば、教団の中で数をとらないと現状を変えることは難しいわけで

す。ある方は、裁判よりも、教団の負担金を出さない教会が多くなることが、現在の教団執行部に対する

一番現実的な抵抗だと、おっしゃっています。この意見は、私も大分前にその方から勧められました。た

だその時も今も、この手法は70年以降の教団の歴史の中で福音主義教会連合の一部の教会がとった手法で

すので、対話を重んじよと主張を続けている者としては、同じ手法をとるのはどうかという躊躇があっ

て、実行に移していません。この意見をおっしゃった方の教会では、負担金未納を実践しています。私の

知る限り、この一教会だけです。現実的な教団政治においては、この負担金未納が一番効果的なのかもし

れません。今回の教団総会を見ていると、それも必要なのかもしれないという気持ちにさせられてもいま

す。

                  
 さて、今日は「牧師室から(32)」を掲載します。これも1999年に教会機関誌に書いたものです。



                    牧師室から(32)


 昨年12月にいただいた胡蝶蘭の鉢には、つい最近まで花が残っていました。蘭の花はず随分長い間楽し

ませてくれます。けれども、日本の花、桜はせいぜい一週間、長くて十日というところでしょうか。何の

幸いか、今年は横浜の桜の名所(?)を見歩くことができました。掃部山(かもんやま)公園の桜は、朝の

犬の散歩で何度も楽しみました。伊勢山神宮の桜も、大岡川の夜桜も野毛から弘明寺まで歩きました。私

たちの新婚生活が始まった場所、大倉山の公園の桜も見ました。そして少し散りかけていましたが、見舞

いの帰りに鶴見の三ツ池にも足を運びました。

 桜の花が私たちを引き付けるのは、日本的な伝統と慣習だけではないように思われます。冬の時期幹か

ら死んだように黒く四方に伸びた枝一面に薄ピンクの花が咲き出し、すぐ散っていく桜の花の、その華や

かさとはかなさには、生の断面をとらえる私たちの感性と合うからでしょう。今年は特に、2月に急に30

歳8か月で亡くなった姉妹のことがあり、その姉妹の短い生涯と桜の花が、私の潜在意識の中で重なって

いるのかも知れません。その姉妹の遺骨と昨年12月に81歳でやはり突然に亡くなった兄弟の遺骨が、イー

スターの墓前礼拝で教会墓地に納骨されました。

 墓地の行き帰りにも、三ツ沢公園の見事な桜の花を、自動車の中から眺めました。姉妹の遺された二人

の幼い子どもたちの歩みの上に神の導きを祈らずにはおれません。

                                    1999年4月


 岩波の同時代ライブラリーの一冊、H.クシュナー、斎藤武訳『なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ

記』について、アレテイアという雑誌で知り、説教でも取り上げましたところ、諸兄姉からの反響が寄せ

られました。本を読みたいという方、「限界をもつ神」というクシュナーの神理解に共感されたという

方、また自分もクシュナーと同じ苦しみを経験したという方(クシュナーの幼い息子は「早老症」という

奇病に冒されて、十数年の命であった)などです。


 「人間の苦しみや不幸は『神の壮大な計画の一部』などではなく、神の意志とは別個の現実である。そ

の意味で、神は限界をもつ。それは『世界が今も創造の過程にある』ことを意味する。世界は混沌と秩序

のせめぎあう場所であり、神の意志の外で、つまりカオスの領域で不幸が行き当たりばったりに起こる。

神には苦しみを防いだり、取り除いたりできない。しかし、神は人間の苦しみという現実を見つめて深く

同情し、私たちと同じように悲しみ悶え、憤りに震える。そして、落胆の中から人を立ち上がらせ、苦し

みを乗り越える力と勇気を与える。また、人の心を奮い立たせ、苦しむ友を助けたり状況を改善するため

の具体的行動へと促す。神の奇跡とは、悲劇が回避されることではなく、耐え難い苦しみの中でも人が神

と周囲の人々に支えられ、生きる力を回復してゆくこと、また多くの人々が損得を顧みず、愛と正義の故

に、他者の苦しみを和らげようと立ち上がることなのである」と。

                                    1999年5月


 梅雨の時期になり、私の好きな紫陽花が咲いています。猫の額ほどの教会の庭にも紫陽花が植わってお

り、今紫の花をつけて、楽しませてくれています。

 先日、一人の兄弟の葬儀があり、私の前任地名古屋の御器所教会に行ってきました。御器所教会は私が

去った後、3年間無牧であいたが、昨年4月から新しい牧師を迎えています。葬儀の後、しばらくぶりで数

人の方と話す機会がありました。その中の一人は、現在御器所教会が生み出した赤池教会のメンバーで、

成人科のクラスを受け持っています。成人科に出席する人からの質問に答えているそうですが、その時も

宗教戦争について」質問を受けて、どう答えたらよいのか考えているとのことでした。私はその時、自

らの信仰を大切にしつつ、他宗教に寛容な「宗教多元主義」の問題ですねと言いました。

 後日、その人からレポートが送られてきました。四百字詰原稿用紙に換算すると35枚分ありました。教

会をセクトとしてとらえ、そのセクトの信仰体験を集団の人間学の言葉で語ることによって、他宗教との

対話が可能であること。神は絶対であっても、教会の信仰は相対的であるからと、結論として書かれてい

ました。

 この人は、大学の教師を退職した方で、若い時からブルトマンの影響を受け、自分なりに聖書を読んで

きた方です。彼との再会で、自分で聖書と格闘し、信仰を磨き、与えられた場でキリスト者として生きる一

ことの大切さを、改めて思わされました。

                                  1999年6月