今日は「黙想と祈りの夕べ通信(148)」復刻版を掲載します。
黙想と祈りの夕べ通信(148[掘43]2002.7.28発行)復刻版
今日は礼拝後に有志による礼拝堂の椅子の修理のワークが行われました。十数名の者が一緒に働き、楽
しい一時でした。その時、以前これと同じ経験をしたことを想い出しました。名古屋のG教会時代のこと
です。G教会では1970年頃から、1959年に名古屋地方を襲った伊勢湾台風による被害の救援活動
から名古屋南部にできましたキリスト教社会館で毎年11月3日にワークをしていました。当時キリスト
教社会館には、三つの働きがありました。保育園と学童保育と障がい児通園施設の三つです。部屋や壁や
遊具や玄関の扉や建物の外壁などのペンキ塗りが主な作業でした。参加者はそれぞれ出来ることをノルマ
を決めないで自由にするというスタイルをとりました。理念としては、「無償の労働」の楽しさを味わう
というところに置きました。賃金労働は実際のところ強制された面が強く、主体的にする労働とは言えま
せん。しかし、人間は元来っ無償の労働によってお互いが支え合っていたのではないでしょうか。社会館
ワークによってそのような現在の私たちに失われている無償の労働の喜びを味わおうというのが、ワーク
の一つの目的でした。礼拝堂の椅子を諸兄姉と直しながら、G教会の社会館ワークのことを思い出しまし
た。
上記の私の発言に続いて、伝道師から発言がありました。自分はよく映画やビデオを観る。先週教会の
階下でビデオを観た。「あなたの話を聞かせてください」という教団の部落解放センターから取り寄せた
ものである。自分が小学校から中学校まで過ごした教会で、知っている人たちが出ていた。出演者の演技
も下手だし、カメラワークも余り上手ではない。ただ内容は重かった。そのビデオの中にこういう場面が
あった。
牧師:「教会員の信頼関係をつくってこれなかったのではないでしょうか」
ある婦人:「イエスさまを信じているのだから信頼関係はある。」
牧師:「もう少し深い人間関係をつくりましょう。」
それを観ながら、自分もどれだけ深い人間関係をつくり得ているのかと、考えさせられている。
続いて一人の姉妹が、今日は礼拝後に当教会で地区集会があった。そこで「合同のとらえなおし」の話
があった。この問題は教会でも6月23日に扱われ、教区の婦人会でも沖縄から二人の女性を招いて話し
合われた。ヒロシマの原爆の詩に、「静かに歩いてつかわさい」という一節があった。広島には地面の下
に沢山の人たちが死んでいるので・・・・・というのである。このこともあって、沖縄には気軽には行け
ないと直感的に思ってきた。婦人集会で沖縄の平良悦美さんにその話をしたら、そういう人は沖縄に遊び
に来てくれ、と言ってくれた。今日の地区集会の後、参加した一人の姉妹が牧師に、当教会で沖縄ツアー
を計画できないか、と言ったという。自分もそう思う。婦人集会で沖縄から来てくれた女性の一人は肉親
が死の直後だった言う。また二人は台風の中を来てくれた。教会で沖縄ツアーが出来るように祈ってい
る。
この日初めて参加した一人の姉妹から発言がありました。今伝道師から二冊本を借りて読んでいる。そ
の中に、病院の中で患者さんと同じ目線で立つこと、安易なケアーでなく聞くことが大切であること、と
書かれていた。学生の時代に学んでいたが、実際に看護の仕事をしていると、実務が優先して、同じ目線
というより、患者さんの上に立っている自分を感じ反省する。一人ひとりとの関わりを大切にしていきた
い。自分の勤めている病院には寿(寄せ場)から来ている患者さんも多い。今週木、金曜日に開かれる寿
青年ゼミに参加して、寿のことを知り、患者さんのことを少しでも知って関わっていきたい。
一人の姉妹は、以前関わったアルコール依存症の方が今は元気にせいかつしていることを知り、感謝で
あると語った。
「完成途上のキリスト者」(『ルターによる日々のみことば』より)
主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやされる。 詩編103:3
キリスト者はふたつの部分、すなわち、信仰による内的存在と、肉による外的存在にわけられます。も
しキリスト者を信仰によって見るならば、彼はまったく純潔です。みことばにはなんの汚れもなく、みこ
とばは心をまったくきよいものとするからです。それゆえにこそ、わたしたちは王であり、祭司であり、
神の民なのです。しかし、わたしたちの信仰は肉のうちに存在し、わたしたちは今なお地上に生きており
ますので、時々、あせりや死のおそれなどの悪い傾向を感じます。これらはすべて古い人の弱さでありま
す。それは信仰がまだ完全に浸透しておらず、肉に対して完全な勝利をえていないからです。
この真理をルカ福音書10章のたとえ話からみることができます。エルサレムからエリコに向かって行
った人が強盗どもにおそわれ、傷つけられ、半死の状態になりました。通りがかったサマリア人が彼をあ
われみ、傷を包み、手当をしました。それから宿屋の主人にお金を渡して彼を介抱するようにと頼みまし
た。そこで、この人はもはや死にいたる病気をもっていないことがわかります。隣人が彼の世話をしてく
れたからです。彼はたしかに生きると言ってよいでしょう。しかしまだなにか欠けているものあります。
それは彼がまだ完全にいやされていないからです。彼の生命は救われました。しかし、彼の健康はまだ完
全ではありません。彼はなお医師の監督下にあり、注意が必要です。
同じように、わたしたちも主キリストを待ち、永遠の生命を確信していますが、わたしたちのうちに古
きアダムのなにかが残っております。
ペテロ第一の手紙講解