なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(136)

 先週、先々週と大変忙しく過ごしましたが、今週からは少しゆっくりと過ごせそうです。ただ今月には23日~25日と教団総会がありますので、またその頃は忙しくなるでしょう。

 今日は、「父北村雨垂とその作品(136)」を掲載します。

                
              父北村雨垂とその作品(136)

   原稿日記「一葉」から(その19)

       俳諧歌仙と西脇順三郎の詩について(その2) 
                      川研 1968年(昭和43年)11月に発表

 さてここで芭蕉連句、歌仙とは如何なるものかと云うことを ~実のところ私も余り精しいことは知ってゐないので~ 調べてみることにしよう。御承知の方もあると思うが、「歌仙は一巻の句数三十六句、懐紙二枚を用いる形式のものを云ひ ―歌仙を懐紙に記すには初折の表に大句、同裏に十二句、名残りの折の表に十二句、同裏に十二句同裏に六句と定まって居り、一巻の最初の句を発句第二句を脇句、第三句を第三、一巻の最後の句を擧句、その他の句を平句と呼ぶ。なをそのほかに一巻中に月の句が三句、花の句が二句は必ずなければならず、亦、恋の句も少なくとも一ヶ所は、よむのが普通である。

そして恋の句については、特に制限はないが、月、花の句は、その詠むべき場所が一定されており、月は初表五句目初折八句目 ―後世は七句目― 名残り表十一句目の三ヶ所、花は初折り裏十一句目、名残り折裏五句目の二ヶ所である。これを月の定座、花の定座と呼ぶ。但し定座は大体の標準を示したに過ぎず、実際に当っては臨機応変必ずしもこれに拘泥する必要はないのであるが、少なくとも定座までには、月、花の句を、それぞれ詠むことになってゐる。例えば初折表で第四句目まで月の句がなければ、」、第五句目には必ず、月を詠まなければならぬ。それを第六句以後に翻(こぼ)す ~定座より後に句を出すこと~ のは普通禁じられてゐるのである。これは要するに自然の景物の最上たる月、花の句を、一巻中適宜な個所に出すための用意にほかならぬ」と以上が穎原退蔵先生の芭蕉讀本の中の一節であり、外に作法上特に必要な七つの箇条書きにして簡潔且つ要領よく説明されてゐる。

ただ、この歌仙が持つところの詩的価値、つまり、それが持つところの詩情については、杉浦正一郎氏の芭蕉研究に精しく書かれてあるので関心を持たれる方も是非一讀される様おすすめする。ここではまず歌仙に於ける最も重要な句と句の間、つまり行間に於ける関係に焦点を合せてみよう。まづ、句の付け方について土芳の三冊子の中の「あかさうし」に「師の曰く、付という筋は、匂い、響き、俤、移り、推量などの形なきより起る所也」と芭蕉の言葉として書かれてあり、そのほかに位等。そこでこの匂いとか響き、俤等が如何なる意味をもつものであるかを探ってみよう。杉浦正一郎氏が書いてゐる様に芭蕉自身には俳論というまとまったものは全くないらしい。そこで、その弟子達の残した去来抄や三冊子、また杉浦の芭蕉研究から抜き出してみよう。
  
  いろいろの名もまぎらわし春の草

     うたれて蝶の目を覚ましいる

 この句はまぎらわしというこころの匂にしきりに蝶の乱るる様思ひ入てけしきをつけたる句なり。

     鼬(いたち)の声の棚もとの先
 
  箒木はまかぬに生て茂るなり
 
 前句に言外に佗たる匂ほのかに聞き及で まかぬに茂る箒木とあれたる宿を付顕す也 ―あかさうしー 。
 この様に匂いとは前句と付句とが、二句一体となって、ある匂やかな余韻の立ちこめるが如き余情の深い付け方(杉浦)である。
                             (続く)