なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(145)復刻版」

      黙想地祈りの夕べ通信(145[-40]2002・7・7 発行)復刻版

 この日の聖書詩篇73編には、不条理な私たちの現実がうたわれています。例えば「神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。/死ぬまで彼らは苦しみを知らず/からだも肥えている。/だれにもある労苦すら彼らにはない。/だれもがかかる病も彼らには触れない。/傲慢は首飾りとなり/不法は衣となって彼らを包む。┈」と言われています。それに対して詩人は、「わたしは心を清く保ち/手を洗って潔白を示したが、むなしかった。/日ごと、わたしは病に打たれ/朝ごとに懲らしめを受ける。」と語っています。

 このような不条理な現実に出会う者の口から発せられる言葉に、神はなぜこのような不条理を容認しておられるのだろうか、そんな神など信じるに値いしないのではないか、というのがあります。キリスト教信仰への問いとしても、神が「全知全能」であるとすれば、なぜこのような不条理な現実を許しているのかと。私は、このような疑問や問いに対して、神は預言者を通して、そして決定的にはイエスを通してこの不条理に満ちる歴史社会に関わりたもうということを信じています。その預言者や決定的にはイエスによってもたらされた福音によって、不条理に満ちた私たちの現実社会を生き抜くことができるのではないだろうか。

 上記の私の発言に続いて、伝道師から以下のような発言がありました。活発な今日一日の教会の活動だった。M教会に赴任して3ヶ月が経ち、3回目の説教を担当した。今日は礼拝後中高科の子供たち、スタッフ、教会員で鎌倉静養館に行った。自分は帰りには海で遊んでくるものと思い、そのための服装で参加したが、海には行かなかった。静養館ではSさんと教え子によるフルートの演奏があり、中学生によるピアノ伴奏による歌があり、Fさんのハーモニカ演奏があり、YさんとTさんのマリンバとピアノの合奏があった。その後のお茶の時には、一緒のテーブルになった静養館のおじいさん、おばあさんがいろいろなことを語ってくれた。人生の経験豊かなおじいさん、おばあさんには、自分の発言に対して何か見透かされているものを感じた。帰りは、Kさん親子と4月から日曜学校に来るようになった二人の中学生を家まで送った。この二人の子は、厳しさのある学校生活という日常の中で、教会に来るとホットすると言ってくれた。今の中1の子は、自分の頃とくらべても課題も人間関係も複雑であり、大変だと思うが、そういう中学生が教会に来てホットしてくれるということに勇気づけられる思いがする。明日から日本基督教団の新任教師オリエンテイションに行ってくる。

 また、一人の姉妹は以下のような発言をしてくれました。今日は鎌倉静養館には行かずに教会に残った。最近お連れ合いを天上に送った姉妹が、同じもう一人の姉妹と待ち合わせのため教会に残っていたので、少し話をした。彼女は教会に来るのが一番つらいと言われた。自分は天上に送ったお連れ合いを教会に来ると思い出すのでつらいのだろうと思った。しかし、そうではなく、教会の諸兄姉から「元気そうね」「お連れ合いを亡くしても元気ね」という声をかけられるのがつらい。私の心の中はちがうのに。彼女は、夫を亡くす以前は、自分も同じようなことをしていたと思うと。自分が同じ言葉で悲しい経験をして、はじめてそのことに気づかされたと。みんな悪意はないのだろうが、お互い言葉かけに注意を心がけていけると、彼女のような悲しみを避けられるのではないか、言葉は少しでも、祈りの中でつながっていき礼拝を共にしたいと思うと。

       

         信仰による聖化(『ルターによる日々のみことば』より)

 「また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである」                                     使徒26:18

 神は、わたしたちが霊的な方法で聖なる者となるそなえをしてくださいました。わたしたちが心の奥底の霊にあって神の前にきよいものとされていることは、霊的な真理のことばです。そして主は、神がわたしたちのうちに働かれなければ、きよさはありえないことを明らかにするために、このことばを語られました。

 それゆえ、わたしたちに信仰があれば、たとえわたしたちがまだこの地上にあっても、福音はわたしたちを聖徒と呼んでくださいます。

 あなたがたは聖なる者でなければなりません。しかもあなたがた自身で聖なるものとなったとか、あなたがた自身の価値でそうなったと思い上がるべきではありません。ただ神のことばにより、天国はあなたがたのものとなり、あなたがたは信心深い者となり、キリストにより聖なるものとなったのです。ただあなたがたはキリスト者になりたいかどうか告白しなければなりません。キリストの血がわたしたちを罪からきよめ、きよい者としてくださるという恵みを否定するほどキリスト者のみ名にたいする大きな侮辱とあざけりはないからです。それゆえ、あなたがたは自分の信心深さによらず、キリストの血によってきよくされることを信じ、告白しなければなりません。このようにして、あなたがたはキリストに生命も財産もあずけ、どんなことが起ころうともそれを受けいれ、忍耐するのです。
                                  ペテロ第一の手紙講解