なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(136)

 昨日から船越教会で開かれたいたフェミニスト神学の会が今日の昼過ぎに終り、散会しました。昼食はありませんでしたので、京急田浦駅から帰る人たちと駅近くの洋食屋さんで昼食をとり、午後2時半頃私だけ船越教会に帰ってきました。

 今日は、ほぼ10年前に発行した「黙想と祈りの夕べ通信(136)」の復刻版を掲載します。

     
       黙想と祈りの夕べ通信(136[-31]2002.5.5発行)復刻版

 今年度の教会行事予定が3月の教会総会気燃稜А⊂鞠Г気譴泙靴燭、それによりますと、6月23日(日)の、ちょうど沖縄慰霊の日に「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同のとらえなおし」について学ぶ集いを持つことになっています。講師は、I教会のS牧師をお願いすることができました。S牧師は沖縄出身の方です。今年度このような集いを持つことになりましたのは、当教会で数年前から8月の第一日曜日の平和聖日を覚えて、8月には平和を祈願する機会を持つようにしてきましたが、一人の兄弟から、私たちがかつての戦争を覚え平和を祈願するとすれば、8月15日の敗戦の日よりも6月23日の沖縄戦が終わった日で、沖縄慰霊の日の方がふさわしいのでは、という意見がありました。

私は、もっともな意見だと思い、今年から6月23日から8月にかけて平和を祈る月間として教会行事に入れることにし、沖縄のことを考えるとしたら、6月23日に私たちの教会が所属する日本基督教団の諸教会、信徒・教職の課題であります「合同のとらえなおし」について学ぶことにしたいと思いました。そのことが役員会と総会で受け入れられて、6月23日の集いが開かれることになりました。ぜひこの集いを覚えて、お祈りくださいますように。

 以上の私の発言に続いて、一人の姉妹の発言がありました。今日の説教は、99匹と1匹の羊の譬えからだった。私はこの教会に小学2年生から来て、日曜学校の先生をしていてくださり、私たちを導いてくれた方がずっと教会から離れていた。数年前に教会員だった彼のお母さんが亡くなってから、それ以後一年に何回か、礼拝に来るようになった。今日の礼拝にも彼が出席していたので、今日の説教をどういう風に聞いておられたろうかと思った。彼が聖歌隊の練習に出ておられたので、「今日の説教は不思議でしたね」と声をかけた。すると彼は、「僕はマタイの方だよ〔迷い出た一匹の羊。ルカは見失った一匹の羊〕」と、おっしゃっていた。子どもの頃自分と同じように日曜学校に来ていた人たちが、教会の信徒として今も教会に連なっていることを思うと、日曜学校のスタッフをしている者として、信仰の継承のことを考えさせられる。そのために祈ると共に、また、日曜学校に来ていて、教会から離れてしまっている方のためにも祈っていきたいと思う。

 続いて伝道師から発言があった。今日は伝道師としてはじめての説教を取りつがせてもらった。神学生の時とは違う。自分の力ではどうすることもできないものを感じて、説教を終わってから考えさせられた。話し方はともかく、聞き手が100人いたら、その一人一人にはそれぞれ違った生活があり、思いがあるわけだから、その100人の人がそれぞれのコンテキストの中で自分の説教を聞いていると思う。以前先輩から、説教は3割バッターをめざせばよい、と言われたことがある。10人いたら3人の人が自分の生活の中で生かされるような説教が出来ればいいと言われた。それでいいのだろうか。聞き手の中でどう受けとめられていくのかは、神さまの働きに委ねるほかない。神のことばを取りつぐということは、どういうことなのか、今日は考えさせられた。
 また、一人の兄弟が、沖縄への思いを語ってくれた。太平洋戦争で最も激戦であり、悲惨だったのが沖縄線だった。文字通り沖縄戦のあった時期(4から6月にかけて)は雨期に重なって、泥沼の戦いだった。現在も日本の米軍基地の70%以上を沖縄に押し付けて日本の安全保障が成り立っていることを思うと、沖縄の人に申し訳ないと。

 また、一人の姉妹は、自分も関わっている近所の一人暮らしの病気だった方が元気になってうれしい。今後は老後の生活が成り立つようにホームをさがしているところなので、覚えて祈っていきたい。


        「喜びの比喩」(『ルターによる日々のみことば』より)

 「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえ  ば、もはやその苦しみをおぼえていない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるた  めである」                   ヨハネ16:21

 わたしたちは、注意深くこのたとえを見なければなりません。それはこれと同じことが、あらゆる試練の場合に言えるからであり、特に、死の悩みの時に、そうであるからです。では、産みの苦しみにある女を、キリストはどのように語っておられるのでしょうか。彼女は苦痛の中に、全く無力のまま横たわっています。だれも彼女を助けることはできません。全世界も、この時から彼女を救うことはできません。産婆もそこにいる他の人たちも、いくらかの慰めは与えることができても、彼女を産みの苦しみから救うことはできません。どうしても彼女はこの苦しみを通りぬけ、そこに命をかけねばならないのです。彼女は幼な子とともに死ぬか、生きるのです。彼女は死の恐怖に全くとらえられて、死の苦しみのさ中におります。

 わたしたちの良心が責められるか、わたしたちが死の苦闘の中におかれる時も、同じことがあてはまります。慰めはありません。理性は助けることができません。いかなる被造物も、わたしたちのなしたわざも無益です。そこでは、神と全被造物があなたがたを捨て、あなたがたに敵対しているようにすら思えます。だがその時、あなたがたは静かにして、神のみによりすがらなければなりません。神があなたがたを救うのであって、天上にあり、地上にある何物も救うことができません。しかも神は最善で最良と思われる時に助けを与えられます。それはちょうど女を助けて、苦痛を忘れるほどの喜ぶものを与えられるのと同じです。前には死と悩みにみたされていましたが、今は、喜びと命にみたされるのです。これと同じことがわたしたちにも起こります。わたしたちが試練に囲まれ、死と戦っている時に、神だけが心を喜びにみたすことができます。
                                 復活後第三主日の説教