なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

8月も終わろうとしています。

 8月も終わろうとしています。19日の日曜日は私の夏期休暇中でした。マルコ福音書のよる説教はお休みしました。そこで、8月は特に「平和を想起」する時期でもありますので、今日は、以前神奈川教区の平和フェスタという集会で話した開会礼拝説教を掲載します。この説教は、2011年の福音と世界「随想メッセージ」の中にも入れたように思います。

      『何よりもまず』(マタイ6:33)   神奈川教区平和フェスタ開始礼拝説教
           2010年3月22日(月・祝)

 私の中では太平洋戦争との関わりで、日本で唯一地上戦が行われ多くの犠牲者を出した沖縄は、長いことなかなか訪ねられなかった場所でした。しかし、今から約10年前に、記録映像作家の高岩仁さんが作った「教えられなかった戦争・沖縄編~阿波根昌鴻・伊江島のたたかい~」を観る機会がありました。その高岩仁さんが中心になり、阿波根昌鴻さんの「わびあいの里」主催の平和学習会が4日間1999年8月に伊江島で開催されました。その平和学習会にはどうしても行きたいという思いが私の中に強く起こり、参加しました。それが、私にとってのはじめての沖縄行きでした。

 4日間の平和学習会は、午前、午後、夜とすべて講演と高岩仁さんの作った映画鑑賞がびっしり詰まっていて、会場となった伊江島の公民館と宿泊していたホテルを、ほとんど行き帰りするという充実しすぎるくらいのプログラムでした。沖縄の歴史、沖縄戦の様相、基地の実態など、日本の中で沖縄がどれだけ犠牲を強いられ差別抑圧を受けてきたかを知ると共に、現在の米軍基地によって沖縄がいかに平和の阻害になっているかということが、ひしひしと伝わってきました。
 
 また、この平和学習会の間に、阿波根昌鴻さんの「わびあいの里」にあります「反戦平和資料館」(ヌチドゥタカラの家)を見学しました。非暴力平和主義をもって基地撤去の闘いを貫いた阿波根昌鴻さんの思想とその生き方が、「人間の生命を粗末にした戦争の遺品と平和のためにたたかった人々の足跡を紹介している」ヌチドゥタカラの家から強烈に伝わってきました。この家の入口の壁に記されている言葉も胸に響きました。

 「平和とは人間の生命を尊ぶことです。この家には人間の生命を虫けらのように粗末にした戦争の数々の遺品と二度と再び人間の生命が粗末にされない為に生命を大切にした人々、また生命の尊さを求めてやまない人々の願いも展示してあります」

 私は戦争ではありませんが、日本の社会のひずみから戦争と同じように人間の生命が虫けらのように粗末にされる現実を寿と同じような場所で若い時に経験していました。ですから、はじめての沖縄行きで、沖縄と寿が一つに繋がっていることを強く感じました。

 関西学院大学准教授の中道基夫さんという人はこのように言っています。「イエスが生まれた家畜小屋は、ある人にとっては病室かもしれません。社会には居場所がなく、カーテンで区切られた狭い空間が自分の居場所となりました。その不安と恐れに満ちた場所にキリストがお生まれになりました。ある人にとっては、課題が山積し片付けられていない自分の仕事机かもしれません。自分の現実、時にはそこから逃避したい現実の中にキリストがお生まれになりました。ある人にとっては、学校の保育室かもしれません。教室には居場所がないけれど、保健室には安らぎを覚える。そこにいていいと言われる場所にキリストがお生まれになりました。職安、ネットカフェ、深夜のコンビニに、決して居心地がいいわけではないけれど、そこにいなければならないところにキリストはお生まれになりました。もしくは愛と憎しみが入り交じり、子ども時代から様々に傷を負い、混沌としている自分の内面の中に」。そのように考えることもできるかもしれません。
 
 私は、中道さんのように個人の場所と共に社会の場所にもイエスのうまれた家畜小屋を見ることができると思います。日本に限って考えるとすれば、イエスが生まれた場所として、二つの場所が思い浮かびます。

 一つは沖縄の「辺野古」です。もう一つは「寿」です。「辺野古」は美しい海で、沖縄戦後、戦争で何もかも亡くしてしまった人たちを優しく受け入れて、海の幸で人の命が育くまれた場所です。そこに日本政府によって人を殺す戦争のためのアメリカ軍の基地を作る話が持ち上がってから、辺野古のおじいい、おばあが中心となって基地建設を反対している所です。

 「寿」は、日本の社会の中で他ではなかなか生活できない人々が、寿に来て何とか生活している場所だからです。辺野古は、人の命と生活をずたずたにする戦争のための基地を作るのに反対して、平和の大切さを発信している所です。寿は、命と生活が脅かされている人々がいることのできる場所です。この二つの場所、辺野古と寿は、日本の社会の中では辺境といっていいでしょう。辺野古は、普天間問題で最近でこそメディアに取り上げられるようになりましたが、今までは辺野古を知っている人はわずかでした。寿も、横浜では、みなとみらい、中華街、元町、山手という観光スポットからすると、ほとんど同じエリアに寿はありますが、知られていません。

 でもこの二つの場所から日本を考え世界を考えることができます。一つは人の命と生活を破壊する戦争に繋がることは絶対にしてはならないということです。もう一つは命に関わる人権ということから、その人がその人らしく生きていっていいということです。

 家畜小屋に誕生したイエスは、ゴルゴダの丘で十字架上の人となりました。イエスの生涯は、神に愛され大切にされている私たち一人一人が、お互いに愛し合い大切にし合って共に生きていく道を、切りひらきました。復活は、このイエスが今も私たちと共に生きていて、イエスの業を続けていることの証言です。とすれば、現代の家畜小屋からはじまるイエスの業に参与していくことによって、私たちも命と平和の充満した神の国の民の一員として生きていけるのではないでしょうか。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食住のように生きるために必要な糧)はみな加えて与えられる」(33節)と、イエスも語っています。

 最後にアシジのフランシスの「平和を求める祈り」を紹介して終わります。平和を求める祈り。

 わたしたちをあなたの平和の道具としてお使い下さい。
 憎しみのあるところに、愛を
 いさかいのあるところに、ゆるしを
 分裂のあるところに 一致を
 疑惑のあるところに 信仰を
 誤っているところに 真理を
 絶望のあるところに 希望を
 闇に光を
 悲しみのあるところに 喜びをもたらすものとしてください
 慰められるよりは 慰めることを
 理解されるよりは、理解することを
 愛されるよりは 愛することを
 わたしたちが求めますように
 わたしたちは与えるから受け
 ゆるすからゆるされ
 自分を捨てて死に 永遠のいのちをいただくのですから。