なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(71)

 先日鶴巻の私のパソコンが、終了中に物が落ちて来てパソコンの電源のスイッチを切ってしまい、初期化されてしまいました。私には復元の技術がありませので、誰か技術のある人に復元してもらうか、このパソコンは相当古いのもですので、この際新しいものに買い替えるかしなければなりません。そのためには少し時間が必要ですので、このブログは今週の木曜か金曜に船越に来るまでお休みさせてもらうようになります。読んでくださっている皆さん、ご了解ください。     

        船越通信癸沓院  。横娃隠嫁8月26日     

・19日(日)は私の夏期休暇中でしたので、船越教会の礼拝はK牧師にお願いしていました。80代後半になっておられるK先生をお願いしておきながら、この暑さですから、礼拝出席が少なかったらと心配していましたが、先生を入れて19名の方々の出席があったことを知り、よかったと思いました。この日私は藤沢大庭教会の礼拝説教を頼まれていましたので、藤沢大庭教会で礼拝をし、その後懇談の時を持ち、午後1時半過ぎに信徒の方の車でJR辻堂駅まで送ってもらい、午後3時から始まる神奈川教区社会福祉小委員会主催の「障がい者と教会の集い」が行われる横浜あゆみ荘(横浜市都筑区)に向かいました。

ちょうど3時ごろ横浜あゆみ荘に着き、開会礼拝に間に合いました。障がい者と教会の集いは今年度第27回です。私は16回くらい出席しています。今回のテーマは「自立ってなーに」です。講師のSさんから、「自立とは何か」という題でお話しを伺いました。このSさんの講演は、障がい者と教会について、今まで自分自身の中にあったぼんやりとした形でこう考えるべきではないかという想念に、明確な道筋をつけてくれるものでした。

・Sさんの講演の「自立の考え方」について、ここに紹介しておきたいと思います。(1)従来の自立観。∥昭坩預犬里覆ぜ匆饑験莪堕蠅鯀按鵝⊃Χ反佑箸靴匿Χ伴立した「独立自活」。(2)今日の自立観。〃从囘な独立ではなく、障害当事者の主体的な判断が生かされる生活方法が自立。⊂祿欧鬟泪ぅ淵垢箸靴銅?瓜澆瓩覆い海函B昭圓琉媚屬任呂覆自らの意志で主体的に生きる生き方を自立。ぐ媚廚良縮生◆⊆己選択、自己決定、自己実現の尊重。

・従来の障害観は医学モデル優位で、障害とは異常であり、社会的適応の手段はリハビリテーションとされてきました。しかし、今日の障害観は社会モデル優位で、障害とは個性であり、社会的適応の手段は社会の改善・変革と考えられています。障害のあるままでよしとし、障害者が生きやすい環境作りがめざされます。本人を変えるのではなく、周囲が変わる。そこには「インクルージョンの理念」があると言われます。

インクルージョンとは、様々なニーズのある人々を包み込み、支え合う社会のあり方を指すものであり、インクルーシブ教育は社会的インクルージョンの一面である。民族、言語、宗教、性別、障害などの理由で排除(イクスクルージョン)するのではなく、子どもの個別のニーズに合わせた愛情豊かな教育をめざし、一人ひとりの違いを祝福し、歓迎する価値観に基づいている」と。

・そしてSさんは、「障害を神の恵みと言える教会づくりを」と提言します。Sさんが属しています教会では、この20年間ホームレスの方々を排除せず、彼ら彼女らと共に礼拝共同体を形成する教会づくりを実践しています。キリストが招かれた罪人と徴税人、障害者と病人、孤児と寡婦、貧しい人々を中心に据える教会づくりです。それはインクルーシブな教会で、路上生活者、障害者との共生をめざし、分かち合う教会であると。しかも共生が単なる理念ではなく、共生感のある教会づくりが大切であると、Sさんは言います。

・私は数年前に『自立と共生の場としての教会』を本にしてまとめました。Sさんの言われることと私の考えは相当近いと思います。ただ、Sさんからすれば、私はまだ理念的であると言われそうです。Sさんの教会の実践に私は触れていませんので、何とも言えませんが、Sさんのお話しを聞いて判断する限り、Sさんは教会をある種のコンミューンとして捉えているように思われます。そういう形態の教会もあり得ると思いますが、それは南米の基礎共同体に近いのではないかと推察します。少なくとも教会の活動の中にある程度の生活過程の共有という要素(路上生活者の炊き出し)が組み込まれているのだと思います。

しかし、現在の日本における都市型の教会の多くはそこまでの生活過程の共有は困難です。教会活動は礼拝を中心とする「宗教活動」に限定されていると思います。ですから、散らされたメンバーが自分の生活の場でインクルーシブな社会の形成を様々な運動に参与することによってめざすことが現実的であり、また教会にすべてが収斂するのではなく、教会と社会が相互連携的な関係にあることが望ましいとも言えるのではないでしょうか。もちろんSさんの教会のような形態も一つのあり方ではないかと思いますが。何れにしろSさんの講演は示唆的であり、現在の私たちの教会のあり方に対する挑戦的な問いかけを含んでいると思います。その意味で大変刺激的でした。ありがとうございました。

・8月12日の神奈川教区平和集会での講師Iさんの講演もまた示唆深くありました。講演の題は「日米安保条約を『日米平和友好条約』へ ~沖縄“本土復帰”40年にあたって ~」です。Iさんは、この講演の中で「日米安保を日米平和友好条約へ変えるための4つの提案」を提起されました。 峽鎧?淹瀘蓮弯析辰鯤?后◆峽竫 廚函岼楕檗廚倭衢討譴覆い海箸鯒瓦蟠く主張・論証する。「非軍事国際条約」に特化するよう主張・提案し続ける(9条の政策化!)。な刃妥環境をつくる「平和外交」推進を主張・提案し続ける。

Iさんはご自分が現在67歳とおっしゃっていましたが、90歳までは平和運動を続けると言い、必ず平和を実現することができるという強い信念を披歴されました。私は70歳になりましたので、少しずつ活動から退いて行こうと思っておりましたが、Iさんの強い信念に煽られて、それは余りにも自分勝手というものではないかと、少々反省させられました。この閉塞した社会と時代にあって、体が続き、若い人の足手まといとならない限りはまだまだ出来ることをしていかなければと思わされました。

・23日(木)午後1時30分から24日(金)正午まで、昨年に引き続き船越教会を会場に第30回フェミニスト神学の会がありました。この会にも私は17回ほど参加しています。一人の子どもを含めて26名の出席がありました。宿泊は私と連れ合いを含めて18名でした。内容はまたの機会にします。