なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(21)

                
 今日は、朝7時前に鶴巻を出て横須賀の京急久里浜駅で、船越教会の路上生活者のパトロール(月一回行っています)に参加しました。自動車で久里浜から横須賀中央・汐入にかけて点在する公園を中心に出会った路上生活者の安否を問い、必要とする方にはおにぎりなどを差し上げています。このパトロールがお昼すぎに終わりますので、今日はその後お昼をすませて印刷するものがあり船越教会に来ています。そこでこのブログもアップできました。

 下記のものはもう16,7年前に教会の機関誌に書いたものです。

               牧師室から(21)

 Mさんという40歳のホームレスの男の人が、「祈らせて下さい」と言って教会に来ました。どうぞと、礼拝堂に案内しました。しばらく祈っておられてから、聖書をいただけないかというので、小集会室でお話しを伺いました。

 自分は小学4年の頃から高校卒業するまで横浜で暮らしていた。東京の大学をアルバイトをしながら卒業し、数年勤め、26歳の時独立して、土地の調査(ボーリング)の会社を興して、一時は60人ぐらいの人を使っていた。ところが、バブル崩壊とゼネコン問題により、下請けしていた大手建設会社からの仕事がいっきょに減少したため、資金繰りができなくなり倒産した。個人の資産は借金返済で失い、そのために3人の子どもは離婚した妻と共に妻の実家に引き取られている。自分は親戚縁者もなく一人になって、自己破産の申請も出来ないまま、借金の取り立てに来る暴力団の目を逃れ、何とか再起しようとしているが、この2週間は、どうしてよいのか分からなくなって、小さい時、母に連れられて教会で幼児洗礼を受けているので、神に祈って自分を取り戻したかったと。

 偽りのない気落ちした態度で、彼は静かに語りました。しばらく話し合って、彼は、少し元気になりましたと気を取り直し、聖書と僅かな食事代にありがとうと言って、高校時代勉強に通った青少年センターの地下にあった勉強室に寄っていきますと、外に出て行きました。

 複雑な想いを抱きながら、私は彼を見送りました。
                               1996年3月

 新しい年度の歩みが始まりました。私にとっては2年目になります。教会総会資料の牧師報告で、私は、役員会の承認を得て、今年度新たに藤沢ベテル伝道所との関わりと寿との関わりについて考えたい旨記しました。総会でも承認を受けましたので、このことに対する姿勢について、私の考え方を述べておきたいと思います。

 「共生と自立」ということからしますと、私たちの教会の交わりは、どこまで目の不自由な方々や寄せ場に生活している方々のことを考えているだろうか、ということです。このことは、私たちの教会の交わりが、どこまで病気の方々やお年寄りや小さな子どもたちや女の方々のことを考えているかということでもあります。つまり他者の存在、特に社会的に見捨てられがちな他者の存在を、私たち一人一人がどこまで、自分と対等同等な存在としてそれぞれの違いを認めながら、共に生きようとしているかということです。そのことを拡大して考えれば、国家・民族の枠を越えて、アジアの民衆やアフリカの飢えている一人一人と、どうしたら共に生きることが出来るかという課題でもあります。それは、ただお金を出すとか、親しくなるとかに終わるものではありません。私たちのあり方・生き方に深く関わっています。

 聖書が証言するイエスの生きざまに学びながら、そのような他者との関わりを踏まえて、私たちの「共生と自立」をどう生き、どう死ぬかを、自分の身近な教会の仲間から求めていきたいというのが、私の願いです。
                              1996年4月

 今の教会や私たちが、どんあ形で捕囚に陥っているのかを知らなければ、そこから自由になることもできません。そういう意味で、ベイヤーの『富める社会と解放の神学~中流階級の教会のために~』は、大変参考になります。

 ベイヤーは、この本の中でミドル・クラスの人々を束縛している三つの顕著な捕囚について述べています。第一は、倦怠感であり、現代生活に影響を及ぼしている無方向性および無意味性という一般的感覚です。第二は、自分たちの所有物に逆に所有されている、ミドル・クラス的生活の贅沢さです。第三は、危険を冒さず、冒険をしない防御的生活です。

 そして教会については、「一度大きな組織を~教会員の数や煩雑な諸行事のことである~を作ってしまうと、私たちは組織が危険に陥るのを極力やめさせようとする傾向」があり、「教会は大きくなればなるほど神殿となる傾向があり、屋根を修復したり暖房設備を稼働させたりすることで、裕福な人の献金に依存してしまうようになる」と。

 なかなか耳の痛い指摘です。だから、私たちや私たちの教会はダメだというのではないと思います。先ずはこのような私たちの現実の問題点を正確に知ることです。そして共に問題を見極め、それをどう乗り越えられるかを考え合って、未来に向かって私たちがどう生きて行くのかが大切なことではないでしょうか。それが主体的ということです。一人としても、教会としても主体的に生きていけたらと願います。
                              1996年5月

6月になると、梅雨の季節、小雨や曇天のもとで咲く紫陽花に、いつも心惹かれるものを感じるのは、私だけではないでしょう。それぞれ自己主張しているかのようなバラの花とは程遠く、風景に溶け込んで咲いている紫陽花は、一つ一つの花というよりも、その全体の存在によって静謐さを感じさせてくれます。

 5月26日のペンテコステの礼拝で幼児洗礼式が行われました。お聞きしますと、私たちの教会で幼児洗礼が執り行われたのは、もう大分前とのことです。今回ご両親の願いに基づき、役員会(教会)が承認して、幼児洗礼式が行われました。私は、ほぼ新しい式文試案によって幼児洗礼式を行いました。現行の式文と試案の違いは、現行の式文では主に両親の信仰と願いに重きが置かれ、試案では両親の信仰と願いと共に教会の決断(受け入れ)に重きが置かれている点にあります。従って、試案には、現行の式文にはない「教会員への問い(私は問いを勧めにしました)」と「沈黙の祈り」があり、今回それを取り入れて、幼児洗礼式を行いました。

 試案の「序詞」の一節に、「この聖礼典による恵は、ただ神の救いのみ旨にのみ根ざすものですから、人はその知恵や能力のはかりによって、これをさまためてはなりません。むしろこの恵みによって主がわたしたちをひとつの共同体とし、このなかに力ある者も弱い者も、ともにひとつの家族として養ってくださることを感謝をもって思い起さなければなりません」とあります。
 
                               1996年6月