なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(137)

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(137)」復刻版を掲載します。    

     黙想と祈りの夕べ通信(137[-32]2002.5.12発行)復刻版

 Aさんの臨終に立ち会いました。今日の説教の中でも少しそのことに触れてみましたが、今回のことを通して、改めて「終りから」私たちの生や死を見直してみるという課題について考えさせられました。時々私も指摘していますが、日本の伝統文化の価値観には、幸福主義と現生主義が根強いと言われます。現生での幸福への執着が強ければ強いほど、この世での「成功」が求められます。この世という現実社会の磁場は無風状態ではありません。この世の権力の意志が社会構造やメディアや教育の場における情宣活動によって民衆を支配します。今日の日本の競争社会の背後にはこの権力の意志がはりめぐらされていると考えてよいでしょう。ある人は「顔のない権力」というように、現代の日本社会の権力のあり様を表現しています。私たちはそういう日本社会に生きるキリスト者として、いつの間にかこの顔のない権力の虜になってしまっているということが起こり得ます。信仰も、悪しき土着化によってこの顔の見えない権力を補完するということにもなりかねません。「癒し」や「慰め」が、ひとつ間違えば、癒し慰めることによって、信仰者を現代日本社会への適応へと促すということも起こり得ます。「終わり」から私たちの生や死を見直すということは、キリスト教信仰によれば「終末から生きる」ということです。聖書の終末は「終わり」でもあり、「目標」[完成]でもあります。神の支配としての神の国が実現成就する完成の終わりから、この世を生き、死ぬためのあり様をとらえ直し、その終りからの視線にふさわしい者として、私たちが生き、そして死ぬということはどういうことなのでしょうか。私が「終わりから」ということは、そのようなことです。

 以上、私の当日の発言に補足を加えて書いてみました。諸兄姉におかれましても、ご一考いただければ幸いです。

 一人の姉妹は、同じAさんの死から、夫婦がそれぞれ自立しつつお互いの交わりをもつということがどういうことなのかについて発言した。

 またもう一人の姉妹は、6人のお孫さんのこととご自分が関わっておられる精神の障害を抱えた病気のお年寄りに関わることについて発言した。6人のお孫さん一人一人に自分の家の庭にプランタンを与え、種を蒔かせた。無造作にもらった種をプランタンの中に蒔いた孫のものが、芽を出すのが早かった。丁寧に一粒ずつ重ならないように場所を決めて蒔いた孫のプランタンからは、なかなか発芽がみられなかった。けれども、その孫のプランタンの種もやっと発芽したので、ほっとした。この6人の孫たちの成長を見守って行きたいと思う。また、自分が関わっている精神障害をかかえたお年寄りが、入院していた病院から大学病院で手術を受け、手術が無事終わって、また病院に戻った。その病院は老人の方の病院で、身寄りのない入院しておられるお年寄りが、一生病棟で過ごすのかと思うと、やりきれない気持ちになる。最近40代の若い医師の働きかけによって、院長も外からボランティアをその病院に受け入れて、入院している方との交流の機会をもつことを了解されたという。その40代の医師から、協力してほしいと頼まれた。その病院に入院している方々が、少しでも楽しい時を持つことができるように、協力したいと思う。

 この姉妹の発言には、私も強く同意させられました。私も教会員の一人の姉妹をお年寄りだけが入院している療護病院に見舞っています。名古屋時代に同じようなケースに出会いましたが、現在私が見舞っている病院は、比較的明るい感じです。


      キリストのさばき(『ルターによる日々のみことば』より)

 「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。さばきについてと言 ったのは、この世の君がさばかれるからである」。  ヨハネ16:8,11

 さばきは父の右に座しておられるわたしたちの主イエス・キリストの力と権威から発せられ、この世の君とその手下たちはすでに罪にさだめられ、キリストに対してなんの力も持たないというさばきが、公的に宣言されています。悪魔はキリストを主と仰ぎ、その足の下に永遠にふみつけられ、かしらをくだかれて苦しまなければなりません。

 この世はさばきを目の前に見ることができませんから、悪魔とその手下たちにすでにくだされているさばきを軽んじ、あざけって、普段の道に進んでゆきますが、その中をキリストは前進してゆかれます。侮辱にやさしく耐えつつも、悪魔の怒りと憤りを打ち破り、敵を投げ倒し、すべてを足の座に踏みつけられる主であることを、悪魔とこの世に対して明らかに示されてゆきます。そして、キリスト者だけがこの真理を信じ、主のみことばがまことであると確信します。彼らは主の力とみ国を信頼し、王なる主によって慰められます。反対に、この世の子らは彼らがその主人、悪魔に求めたもの以外にはなんのむくいも受けません。彼らはキリスト者に対して憤ったので、よみの深い淵に投げ入れられ、永遠のやみの中に滅びます。
                        ヨハネ福音書16:5-15の講解