なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(135)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(135)」復刻版を掲載します。

       黙想と祈りの夕べ通信(癸隠械[-30]2002.4.28発行)復刻版

 長年当教会の関わりを、当教会の差別的体質への講義という形で表明してこられたFさんが、根岸の病院に入院しており、先日私は見舞いに行って来ました。病院の談話室でしばらく話して、お見舞いの品を渡し、大事にしてくださいと言って帰ってきました。その話し合いの中で、Fさんは、以前に私を殴ったことがありますが、「あなたを殴ったことは悪かった。謝ります。」と、はじめておっしゃいました。

Fさんから教会で殴られたのは、3年ほど前になります。私がM教会に着任して7年間、直接的、間接的にFさんと関わり続けてきましたが、今回のようなことははじめてです。彼が病気で入院し、気弱になったということもあるかも知れませんが、それでも大変嬉しいことです。彼は、退院したら、聖書を本格的に勉強したいとおっしゃっていました。できれば、神学校にいきたいとともおっしゃっていました。彼の健康が回復するように、また彼の今後のために祈っていきたいと思います。

 上記の私の発言に続いて一人の兄弟の発言がありました。先週西区のプールに行った。その帰り道をバイクで走っていたら、多くの若い人が、その道沿いにあったある宗教の会館に入って行った。どういうことをやっているのか興味があったので、バイクを止めて、自分もその会館に入って、集会に出て見た。話の内容は、失礼だが、どうということはなかった。ポジティブ・シンキングというか、現実の苦しみをこうすればよい方に向けられるというように、肯定的に物事を考えるように奨めるものだった。

参加している若い人の中には、その話を聞いて泣いている人もいた。話の内容自体には問題を感じるが、そういう話を若い人たちが聞きに来るのは、胸にポッカリ空いている穴が埋められ、心の逃げ場になって救われているためだと思う。そのポッカリ空いた穴を持つ者に、自分もそういうものをもっているが、どう応えていけるだろうか。この宗教のやり方は疑問だが、では教会はどうすればそれに応えられるのだろうかと考えさせられた。

 続いて一人の姉妹が発言しました。今牧師がFさんのことを話したが、私にとってもFさんのことは大きなことで、自分なりに報告するので祈っていただきたい。Fさんが入院する少し前に電話があった。「もうそろそろ止めますけどね」とFさんは言った。抗議の電話を止めるということだったようだ。入院した病院から電話があり、受けた。短かった。T教会のO牧師を尊敬していると言っていた。

以前西区役所のところで、Fさんとばったり会ったので、自分としては挨拶したつもりだったが、笑ったと言って、足蹴りされたことがあった。その後も抗議の電話が続いた。一喜一憂しながら、腹が立つこともあるし、落ち込むこともある。けれども、彼にとっては、電話をかけてくることがコミュニケーションの一つかもしれないと思ってきた。だから、自分がFさんからの電話が早くなくなればという思いを持つことに、いけないと思っていた矢先に、最近、そろそろ止めますという電話があり、彼の中に変化が起こっているのかもしれないと感じた。

Fさんが、今までとは違った視点によって歩めるとすれば、それは奇蹟に近いのではないかと思う。孤独な彼が上とのつながりの中で、心豊かに生活できるように祈っていきたい。

    

      「失われたものをたずねて」(『ルターの日々のみことば』より)

 われわれはみな羊のように迷って、/おのおの自分の道に向かって行った。/主はわれわれすべての者 の不義を、/彼の上におかれた。
                              イザヤ53:6

 兄弟たちよ。わたしたちが自分が自分を養い、自分で自分を治め、自分であやまりから守り、自分のいさおで恵みと罪のゆるしを得ることができるとすれば、全聖書はうそをついていることになります。聖書は、わたしたちすべてが失われ、散らされ、傷つけられた弱い無防備の羊であるとあかししているからです。その時わたしたちは、わたしたちをたずね求め、一か所に集め、わたしたちを導き、傷を包み、わたしたちを世話し、悪魔にたいしてわたしたちを強めてくださる羊飼いとしてのキリストを必要としないことになります。その場合、主がわたしたちのために命を捨ててくださったことは、むなしいことになります。わたしたち自身の力と信心深さで、これらすべてを得ることができるならば、キリストの助けは必要ないからです。

 しかしこのイザヤ書のことばは全く正反対のことを言っています。すなわち、あなたがたは失われた羊であり、自分では羊飼いの所まで道を見つけることができないということです。あなたがた自身で迷うことはできます。そして羊飼いキリストがあなたがたを捜し求め、引き戻してくださらなければ、あなたがたはそのまま狼のえじきになるでしょう。

しかし今や、主はこられ、あなたがたを捜し求め、あなたがたを見いだし、あなたがたを群れに引き戻してくださいます。すなわち、みことばと聖礼典によりキリスト教会に引き戻し、その命をあなたがたのために与え、もはや今後あやまった道に迷わないように、正しい道に守ってくださいます。そこでは、あなたがたの力と、よいわざと、いさおしが、失われた無防備の状態で迷い出ていることを意味する以外には、あなたがたの力と、よいわざと、いさおしについてはなにも聞かないでしょう。そこではキリストだけが働き、価値があり、その力を現されます。主があなたがたを捜し求め、まもり、導かれます。主はその死によりあなたがたのために命を獲得してくださいました。
                               詩篇23篇の講解