なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(124)

 昨日の日曜日は藤沢大庭教会の礼拝説教を担当し、昨日から今日にかけて行われました神奈川教区社会福祉小委員会主催の障がい者と教会の集いに参加しました。

 障がい者と教会の集いでは、川崎の桜本教会の牧師で、田園調布学園大学人間福祉学部、心理福祉学科教授の鈴木文治さんの「自立とは何か」という主題で講演があり、その講演によって、障害観の変遷や障がい者の自立についての考え方やインクルージョンの理念など、今まで自分の中にも漠然とはあった考え方に、はっきりとした道筋を与えられたように思いました。いずれこのブログでも鈴木さんの講演の内容を私なりにまとめて、みなさんと共有したいと思っていますが、今集いから帰ってきたばかりですので、今日は、「父北村雨垂とその作品(124)」を掲載します。

                 
               父北村雨垂とその作品(124)

  原稿日記「一葉」から(その7)

 人間と云う生物の生きる構造と組織を包越的或は超包越的に語らうとする詩が形而上詩であり、またその学が形而上学であり、その構造と組織から分析することによって眞理を摘出する或は発見する学が哲学である。故にその組織や構造が完全へと永遠に完全への可能性として目途してゆれうごくことによって哲学も終結のない永遠えの道を歩き續けるであらう。

 デカルトもカントもヘーゲルもやがてプラトンアリストテレスと同じく古典哲学者として哲学史上の人となるであらうか。
                           1979年(昭和54年)1月20日 雨考


  昭和54年(1979年)1月 作品
  
 (以下の作品の中には習作も含まれていると思われます。)


 議事堂に またも 角兵ヱ獅子の連れ
 
 ヨチヨチとコトバの卵 歩るきだす

 太陽は枕を 鐘の鳴る丘に

 職安へ 力婦はペットを抱いて来る

 帰れ、野犬(いぬ) 俺も失業者なのだ

 十字菜の花は 蝶の仮面を引き剥がせ

 おはようと一度は朝に曰うかな

 ひとつ目の月に 寺町 涅槃の街

 五月の風を見上げて鮒よさげすむか

 超人に 羊は焼けて 風に乗る

 蛇は橋に 獅子と羊はとうとうと海え

 西来意 子連れの獅子は断崖上に

 断崖に 子連れの獅子や 西来意
 
 産め 産めと 産ませた果を火炙りに

 卵/卵/卵/零/羽/ブロイラー

 君 識るや 火蛾に眞昼の 扉を啓く

 鶏卵(たまご) たまご 卵 零(ゼロ) ブロイラー

 帰れ 野犬(いぬ) 影百萬のひとるは俺
 

 菊の愛好者の菊に人間臭があるのは悲しいことである。野菊にはいささかも人間の嫌らしさがない清純そのもので、こころある人を喜ばせて呉れる。

 意識は時計の指針(はり)を無意識に狂わせる

 哲学者はとかく 觸角を信用しないで、或は気付かずに、迷路を歩きたがる。
 デカルト、カント、ヘーゲル、等、 等。
 マルクス唯物論的観念論者である。