なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(125)

 今日は、「父北村雨垂とその作品(125)」を掲載します。以下の父の文章は、ヤスパースの哲学と東洋の禅の思想との共通性について書いているように思われます(引用部分多し)。特に超越の問題は、キリスト教信仰にも関わるのではないでしょうか。キリスト教信仰の場合、超越の問題は信仰の問題であり、聖書では「神」・「イエス・キリスト」による啓示に当たるのでしょうか。

                
                父北村雨垂とその作品(125)

 原稿日記「一葉」から(その8)

 カール・ヤスパースは哲学的生活態度の中で ~哲学とは何か 白水社版林田信二訳、114頁~ 哲学的生活には二つの道があるとし、ひとつは孤獨の道、あらゆる種類の反省を通じ瞑想する道、いまひとつは他の人々といっしょに歩むという道、いっしょに行動し語りあい、黙しあいながら、あらゆる種類の相互理解を通じて、交わりを進めてゆく道として、その日その日の深い熟慮の瞬間というものが不可缼である ~東洋の禅若しくは止観《雨垂考》~ と云う。

第二に超越してゆく瞑想であるとして、詩と芸術の助けを借りて存在の暗合を讀みとり、この暗合を哲学的に描き出すことが出来るとし、時間とは無関係なものや永遠なるものを時間の中で確認し、私の自由の根元に更にはこの自由を通じて存在自身にふれようと努め、いわば創造に関知するような根據にまで深まって行こうと努める。

第三にいま現在何をなすべきかということが熟慮される。目的をめざす思考の力強さが免れ難いものである故に私の生き方から包越的(超越的な?)な意味が失われる場合、共同体の中での自分に固有な生の有り方を想起することは、この日常のきわめて些細なことがらにまで及ぶ現在の課題が明白になるための背景になると云う。斯うした瞑想の中で、私が私一人で獲得するもの、若しそれが一切であるとすれば、それは獲得されなかったも同然である。

 「他者との交わりの中で、現実化されることのないものは、まだ存在しないものであるし、最終的に交わりの内に根據をもつものでないものに十分な根據はない。眞理は二人の間で始められるものなのである」。それ故哲学は絶えず交わりを求め、徹底して交わりをおし進めることを要請し、いつも違った衣をまとって、おのれの考へを押しつけようとする傲慢な己れの自己主張を放棄する様にと要請し、又この自己放棄にもとづいて私が私に数へきれぬほどくりかえし贈与されるであらうと希望しながら生きることを要請する。だから私は自分を絶えず疑わねばならず安心してはならない。また自分を信頼できるものとして照らしだし眞実だとする様な、私の内なる憶測上の不動の地点を頼りにしてはならない。そうした自己確信は、誠実さを缼いた自己主張の最も誘惑に充ちた在り方である。

~中略~
 
 自己反省と超越してゆく瞑想と課題を思い描くという三つの形の瞑想を遂行し、制限のない交わりに対して己れの身を開く場合そうした私には、その到来を決して無理強いできないようなことが、即ち私の愛の明晰さ隠れてゐて常に不確実で在りつづける神性の要請、存在の問題性といったことが、私の考量を越えて現前することになる。そしてそれと同時におそらくは吾々の生活の絶えざる不安の中での心の安らぎ、不幸の存在にもかかわらず感得される事物の根據への信頼、動揺する己の激情の只中での決断の確かさ、この世界の誘惑にみちた刹那的なことがらにあっての忠実さの信頼性といったことも、私に現前して来ることになるであらう」と云って、云わば私が私自身に還って来る瞬間のもつ意、と云っている。「斯した場合の哲学することは、生きることを学ぶこと、もしくは死ぬことが出来ることと同じである」と付記してゐる。そこで「瞑想は思考の力というものを教示している」と結論づけている。

 なんと東洋の禅とか止観と云った思想に酷似しているのではないか ~ 天台の止観と竜樹の理論については42頁~47頁〔父北村雨垂とその作品(121)、原稿日記「一葉」から(その4)参照〕に記してある故重複を避けるが、東洋思想の偉大さが証明されたものとして、私は確認する。