なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(20)

 今日から明日にかけて、第30回フェミニスト神学の会が船越教会で行われます。今の会は、神奈川教区の性差別に関心のある女性の信徒と教職によって始められて、30回30年続いている集いです。ですから、私は昨日水曜日の午後からその準備もあり、船越教会に来ています。

 さて、下記に掲載した文章は、大分前の(18年前)の教会の機関誌に書いたものです。

               
                牧師室から(20)

 9月から11月半ばにかけて、3月まで牧師をしていました名古屋のG教会の関係者を含めて、故人の記念会や葬儀が5件ありました。人の死に関わる集まりにお話しをする立場で出る私は、その度に、何をもって最愛の人を失った人々を慰められるのか、いつも問われます。それぞれの死は固有な存在の死であり、すべてを一律に把えることはできません。高齢の方の死もあり、若い方の死もあります。相思相愛だった連れ合いの死もあり、また小さな子どもの死もあります。

 今年2月にG教会の関係者で2人の娘のいる夫婦が、下の娘を大学卒業前に白血病で亡くしました。その方の納骨を頼まれて、11月3日愛知県碧南市まで出かけました。そのご夫婦は、娘さんの死後一カ月位経った頃お会いした時、娘が死んでも世の中がいつもと同じように動いているのが不思議でたまらないと、遠くを見ているうつろな目をして言われました。今回お会いした時も、その気持ちは変わらないということでした。そういう方に語る言葉があるでしょうか。むしろ、何も語らず、そばに静かにいることしか出来ないのではと思ったりします。そんな時、それでも語らなければならない牧師になった自分を、別の自分がもて余しているのを感じます。

 もし「イエス・キリストは、きのうも今日も、永遠に変わらない」(ヘブル13:8)や「…生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ロマ14:8)という聖書のみ言葉がなければ、語る言葉は自分には何もありません。
                                  1995年11月

 11月12日の日曜日礼拝後のエイジグループの中に、この4月に私がM教会に着任してからはじめて「青年(会)の集い」が加わりました。この集いは、青年会の委員の方にお話しをして、私が呼びかけました。その案内の文章の一節を紹介させていただきます。

 「昔ギリシャの都市(ポリス)にはアゴラ(広場)という場所があって、人々が自由に集まって来たと言われています。家庭でも、職場でも、消費という場でとも違う教会という人の集まる場が自由な人の集いになることが、ぼくの夢です」。

 当日8名の青年が集まりました。その中には最近この教会に来るようになった2名の方もいらっしゃいました。ひとりひとり自己紹介をして、少し話し合いました。新しく来るようになった一人の方が、何故自分が教会に来るようになったかを話されました。「自分は法学部で勉強していて、外国人労働者が捕らえられた時に、聖書をもっているということを知って、教会に来てみようと思った」と、その方はおっしゃいました。

 きっかけはどうであれ、教会という場を共有する青年相互の間に、また年代の違う方々との間に、出会いが起こり、共に在ることの喜びを経験できればと願います。そのために、しばらくこの「青年(会)の集い」を続けて行きたいと思います。どうぞ、この時代と社会の中で将来を模索している青年のことを覚えて、長い目で見守って下さいますようにお願いいたします。
                                   1995年12月

 私がM教会で洗礼を受けたのは、1959年のクリスマス礼拝でした。T牧師からです。翌年棕櫚の主日にT牧師は召天されました。その年のクリスマスの頃、この1月1日に召されたK牧師がN教会からM教会に着任されました。39歳だったと思います。私は、それから数年後に入学した東京神学大学の4年の終りまでの約6年間、K牧師家族の一員のようにしていただきました。古い木造の教会堂の階下日本間によく泊り、先生のお宅で食事をいただきました。先生が召されて、その頃のことがよく脳裏に浮かんできます。

 若い頃の私は一徹なところがあって、筋の通らないことには、誰に対してもストレートにぶつかる方でした。先生はそういう私の性向もよく理解してくださって、随分カバーして下さいました。1974年から1977年まで、私は先生のM教会最後の時期に伝道師をさせていただきました。当時「教会の前進のために」と言ってM教会の辞任を決意された先生を、未熟であった私は、支えるどころか追い詰めてしまったのではないかと悔やまれます。

 昨年4月に、私がM教会の牧師となって横浜に帰って来て、戸塚にいらした先生をお訪ねしたとき、私がM教会の牧師になったことを大変喜んでいただきました。その時、母教会でもあり、かつて先生の牧会されたM教会の牧師を引き継ぐ責任の大きさを痛感させられました。先生を天上に送った今、改めてそのことを感じさせられています。
                                   1996年1月

 今の私たちの社会は、夫婦や親子の関係をどうしようとしているのでしょうか。また、私たち自身の側では、その関係をそのように生きようとしているのでしょうか。特に夫婦という対幻想は、解体と創造の狭間で試行錯誤を繰り返しているように思われます。私の世代(50代前後)の仲間と話している時、夫に当たる男性はよくこんなことを言います。10年上の年代の人たちのように俺たちの世代は、男が「俺について来い」と言っても女はついて来ない。夫婦関係を維持していくたまに随分努力しているんだと。そういう風に本心を語る私たち男の心の中には、根深い男中心の考えが隠れようもなく現われていて、さぞ女の側にとっては許しがたい存在に思われることでしょうが。

 人類の誕生と共に始まり、途絶えることなく続いてきた男女の結婚という営み、マックス・ピカートによれば、国家や文化よりも、それらが生まれる以前からあり、それらが滅んでも人間が生存する限り原初的な人間の営みとしての結婚。一人の男と一人の女の共同生活としての結婚において、お互いがそれぞれを豊かに生かし合う関係をどのように形成することができるでしょうか。
若いカップルと結婚式を前にして準備をする度毎に、私は、「シングルや離婚が増えているのに、よく決心したね」と言うことにしています。そして、結婚は自分たちの決心と共に、2人を結びつけている神の定めへの信頼が大切であることを強調し、その二人の上に神の導きを祈ります。
                                    1996年2月