なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(14)

   「憐み深い人々」マタイによる福音書5:7、2018年9月9日(日)船越教会礼拝説教


・私の連れ合いは、今大学病院に入院しています。この一週間毎日私は付き添いとして面会に行っていま

す。連れ合いがこの大学病院に紹介されたのは、町の胃腸科の医院からでした。大学病院に紹介される前

も、この町の医院で診てもらい、大腸の内視鏡検査を受け、一日だけ入院しました。その時も私は付き添

い、二日ほどその町の医院に行きました。大学病院の看護師は若い女性の方々がほとんどです。一方町の

医院の看護師の方は、ほとんど年配の女性の方々でした。おそらくこの医院で、ずっと働いてきている看

護師の方々のように思われました。


・町の医院は建物も相当古く、入院した時の部屋は四人部屋で、連れ合いのために一つのベットだけが

シーツが敷かれて整っていましたが、後の三つのベットは、すぐに入院患者が利用できる状態にはなって

いませんでした。病室はその医院の二階でしたが、連れ合いが入院した病室の隣にもう一つ病室があっ

て、そこにも入院患者がいて、ひとりのお年寄りの看護師が中心に、もう一人の中年過ぎの看護師の二人

で二階の患者を診ていました。


・医療設備は恐らく最先端のものが整っていると思われます大学病院と、町の古い医院とでは、病院の設

備という点では天と地の差があります。連れ合いが入院している大学病院の病棟は、広々としていて、大

学病院の病棟としてはそんなに無機質な感じはしませんし、全体として好感が持てますが、患者や面会者

と看護師が廊下で会っても言葉はほとんど交わしません。連れ合いも一週間程入院していますが、ごくわ

ずかの方以外は、看護師の方との人間的な交流はほとんど感じられないと言っています。定期的に検診に

くる看護師は、医療器具と共にデータを入力するパソコンの端末がある移動テーブルを動かして病室に来

ますが、患者との会話をして、パソコンに入力して帰って行きます。


・町の医院に入院した時は、お年寄りの看護師が点滴をしてくれたりしましたが、患者へのいたわりが感

じられる会話があり、人間味が溢れていました。患者は病人でありますが、同時にひとりの生の人間で

す。大学病院では病気の治癒が大前提ですから、患者を病人として終始機能的に見ているのでしょう。し

かし、連れ合いが診てもらった町の医院は、患者を、病気を抱えたひとりの生の人間として、全人格的に

看てくれているように感じました。


・さて、今日私たちに与えられている聖書のテキストはマタイ福音書5章7節です。≪憐み深い人々は、幸

いである。その人たちは憐れみを受ける≫という、イエスの山上の説教の中の至福の教えの一つです。今

病院の看護の在り方についてお話ししましたのは、このテキストに語られている「憐み」について思い起

したかったからであります。


・マタイによる福音書9章9~13節に徴税人マタイのイエスによる召命の記事があります。その個所を読ん

で見たいと思います。≪イエスはそこをたち、通りかかりに、マタイという人が収税所に座ているのを見

かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事

をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事

をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病

人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とは、どういう意味か、行って学び

なさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」≫と。


・ここに引用されています、『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』はホセア書6書6節

の言葉です。マタイでは12章1節以下の「安息日に麦の穂を摘む」物語の中にもこのホセア書の言葉が引

用されています。この言葉はどのような意味なのでしょうか。


・「いけにえ」とは旧約の祭儀(礼拝)における「犠牲」のことです。「いけにえ」とは、犠牲獣をささ

げて神の礼拝する行為をさしています。つまり「いけにえ」とは神に向けられている人間の行為なので

す。今私たちが守っています礼拝も、わたしたちにとっては神に向けられた行為と言えるでしょう。


・一方「憐み」は誰に向けられるのでしょうか。私たち人間が、神を憐れむとは言いません。神が私たち

人間を憐れむとは言います。旧約聖書では、この「憐み=慈しみ」は、神がその民に与えた契約関係から

発しています。契約に基づく神による人間(イスラエルの民)への連帯性は、受けるに値しないものに与

えられた神の助けの業の恵みと誠実を意味します。同時に、その神の行為はそのようなものとして「憐み

=慈しみ」を意味します。この神の「憐み=慈しみ」は、時に困窮している者たちに、そしてまた動物た

ちにさえ向けられています。そしてそのような神の態度は、契約相手である民の行為にとって、規範であ

り、模範であり、動因(事を引き起こす直接の原因、動機)でもあります(新聖書事典より)。


・つまり、『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』の「憐み=慈しみ」は、それを必要

とする人間へと向けられるべきなのであります。


・私たちキリスト者の中では、礼拝遵守が伝統的に大切にされてきました。私の世代のキリスト者の多

く、特に企業で働くキリスト者は、礼拝のある日曜日と週日の生活を二元論的に分けて、二つを使い分け

て生きてきました。信仰の論理を利潤追求を目的とする企業の仕事の中に持ち込むことは難しいので、日

曜日の生活と週日の生活を一致させることをあきらめて、二元論的に生きる道を選んできたのです。その

結果どういうことが起こったかといいますと、礼拝という神との関わりを、信仰者として大切にします

が、日常の他者との関わりにおいて、ごく限られた個人的な関係にある他者とは「憐み深い人」として生

きようと努力しますが、社会的な諸関係にある他者とは、ほとんどこの世の論理による付き合いに留めて

しまうということにならざるを得ませんでした。そのような私の世代のキリスト者にとって、『わたしが

求めるのは憐みであって、いけにえではない』というホセアの預言は、なかなか厳しい言葉に聞こえま

す。


・イエス時代のファリサイ派の人々も、憐みよりもいけにえを大切にしていたと思われます。マタイによ

福音書23章に、群衆と弟子たちにイエスが語った、律法学者とファリサイ派の人々を非難する言葉が集

められています。その中に、23節ですがこのように言われています。


・≪律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、ういきょうの十

分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそお

こなうべきことである。もとより、十分の一の献げ物もながいしろにしてはならないが≫。(23:23)。


・このイエスの言葉をホセアの言葉に置き換えて言うとすれば、ささげもの(礼拝)は大事だが、憐み

(正義、慈悲、誠実)をもって他者である隣人と共に生きることは、礼拝に引けを取らないくらいに大切

なのだと言われているように思います。


・有名な善きサマリア人の譬えは、神を愛することと自分のように隣人を愛することが、命に至る道であ

ることを知りながら、自分を正当化するために、「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエスに質問

した律法の専門家に対して語られています(ルカ福音書10:25以下)。傷ついた旅人を助けたのは、ユダ

ヤ人とは犬猿の中であったサマリア人でありました。イエスは律法の専門家に、「行って、あなたも同じ

ようにしなさい」と言われました。


・この善きサマリア人については、イエスその人ではないかという解釈があります。礼拝において神を愛

するとともに、日々の生活において他者である隣人を自分のように愛する。それを身をもって実践した人

がイエスではないかと思うのです。そのイエスは権力者と権力者に追随する民衆によって十字架に架けら

れて殺されましたが、神はイエスを死から甦らせて、復活者イエスとして、今も私たちの中に生きて働か

せてくださっています。


・≪憐み深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける≫。ハンスヴェーダーは「憐み深い者と

は、他者の為に、それも無制限に活動している者なのです」と言っています。しかも情熱をもってです。

憐みは情熱であるというのです。「憐みにおいて人間は情熱的に他人に好意を寄せる」と。


福音書を読みますと、イエスの生き様の中にも、苦しむ人々を助けようとする激しい情熱を感じます。

ユダヤ教では、無知な者、罪人には「憐み=慈しみ」を施すべきではないとされていたと言います。イエ

スはむしろそのようにユダヤ教の社会から見捨てられていた人々に、優先的に憐れみをもって接した人で

はないでしょうか。


・最初に申し上げましたように、今私の連れ合いは病と向き合って入院しています。その同じ時に西日本

の台風による被害と北海道の地震による被害の、大きな二つの自然災害が起きて、亡くなった方や沢山の

被災者の方々が出ています。その方々がどんなに大変な状況に置かれて、苦しんでいるか、頭では分かっ

ていても、「憐みにおいて人間は情熱的に他人に好意を寄せる」という風には、今回はなかなかなれない

でいる自分を感じて不思議に思っています。連れ合いのことに気持ちが行ってしまって、自分の中では西

日本で被災に合った方々のこと、北海道の地震で家がつぶれ、家族を失なった方々のことが、同じような

災害が起こってその被災者の方々に今まで感じたようには強く感じられないである自分がいるのです。


・そのような自分自身の現実を見せつけられますと、特に弱くされている他者ある隣人に憐れみをもって

接し続けられて、十字架の人となったイエスの凄さに驚かされると共に、そのイエスに導かれながら、自

分もまたイエスの仲間として生きて行きたいと、強く思わされるのであります。


・≪憐み深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける≫。このイエスの至福の言葉を噛みしめ

たいと願います。