なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(119、復刻版)

         黙想と祈りの夕べ(通信 119[-14]2002・1・6発行)復刻版

 2001年も過ぎようとしています。今年は9月11日の事件以来の出来事を含めて、いろいろなことがあり、また21世紀の最初の年ということもあり、考えさせられることが多くありました。その意味で、この年の最後の「黙想と祈りの夕べ」の時を、このように静かに迎えることができたことを感謝しています。クリスマスの集いが終わり、文字通り年の瀬を迎えていますが、教会に連なる諸兄姉の中には、今年も病院やホームで年を越す方がいらっしゃいます。今日の礼拝でS兄が、治療の可能性がなく、けれども家にかえることもできない病者やお年寄りを受け入れざるを得ない医療機関の問題にも触れていましたが、現実にそういう方が沢山いらっしゃるのです。今日も午後に一人の姉妹を療護病院に見舞ってきましたが、その病院は認知症のお年寄りを受け入れていて、病院ではありますが、ほとんど特別擁護老人ホームと代わらないように見受けられます。介護が中心で、その働きに携わっている方々によって入院しているお年寄りが支えられています。この年末・年始という時に、多くの病院やホームにそういうお年寄りやそのお年寄りを介護される方々が沢山いらっしゃることを覚えたいと思います。

 以上のような私の発言に続いて、一人の姉妹が以下のような発言をしました。

 紅葉坂教会に来てから7年近くが経とうとしている。その間自分が関わるようになったボランティアの働きが広がった。主に三つある。一つは、障がい児をもつ母親が外出するときにその子どもの世話をする働き、一つは、障がい者作業所の昼食作り、そしてもう一つは、教会のもみじの会のテープ朗読である。段々自分の働きが広がって、これ以上増やすと、自分の体調を整えながら、一つ一つの働きを丁寧にできなくなるのではと思っている。先月も喉と鼻の具合がよくなく、もみじの会のテープ朗読や聖歌隊もあるので、喉を無理に使わないようにしてきたら、返って声がどんどん出にくくなってしまった。12月は早めにテープ朗読をと思って、無理に始めた。一日目は声がよく出なかったが、二日目は出るようになった。この小さな体験から、これkら自分が気をつけなければならない一つのことを知らされたように思う。それは、福音書のイエスのタラントの譬えではないが、与えられたタラントを使わないで、隠してしまっておいた人のようになってはならないということである。用心して使わなかったために、声が出にくくなったのである。必要以上に動き回ることはないが、セーブし過ぎることによって、自分のエネルギーが出なくなってしまうこともあるように思う。今年一年はボランティアを楽しくさせていただいた。この一年の感謝と共に、これkらも、出来ることを精一杯して、いろいろな人との出会いを大切にしていきたいと思っている。

 もう一人の姉妹は、今日は一年の最後の日曜日なので、この一年を振り返った。「暗闇の中に光が輝いている」という聖句を与えられて、始まった一年だったが、世界的に不幸なことが起こり、沢山の人が苦しんでいる。それでも、自分としては与えられた聖句によって一年が過ごせたことを感謝している。来年はどんな聖句を与えられるだろうかと思っている。この「黙想と祈りの夕べ」の時が自分にとって大きかった。来年は、自分のことだけでなく、この気持ちを分かち合いたいと願っている。
 一年の終わりに当って、諸兄姉の上に主にある平安を祈ります。

   
         「その栄光を見た」(『ルターによる日々のことば』より)

  「彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、・・・・・・黄金・乳香・没薬などの贈り物をさ   さげた。」             マタイ2:10-11、

 この物語から二つのことを学びたいと思います。第一に、博士たちが新しく生まれた主キリストを捜しに行った時、キリストはエルサレムにはおられませんでした。そこで、彼らがかりそめにも主を見いだそうとするならば、預言者ミカのことばを聞かなければなりませんでした。そして、みことばを受けとった彼らは、ベツレヘムへと旅立ちました。その時、神が彼らに与ええられた慰めは、エルサレムを出るやいなや、星が帰ってきて、彼らの道をヘツレヘムまでまっすぐに、あかあかと照らし、幼な子のいる家の扉まで導いたことです。たしかにこのような慰めは彼らに必要でした。なぜなら、そこに見いだしたのは、貧しさとみすぼらしさだけだったからです。それは、マリヤとヨセフのけではありませんでした。幼な子は馬ぶねの中に横たわっていました。飲み水すら十分でありません。いったい、これが主の住まわれる所でしょうか。

 しかし、博士たちは間違った所に導かれていません。まずしさとかみすぼらしさを気にかけず、彼らは幼な子の前にひれ伏し、拝みました。宝の箱を開けて、贈り物をささげました。

 第二に、この物語から学ぶべきことは、わたしたちの主イエス・キリストにどのような態度をとったらよいかということです。わたしたちは、ここで、あらゆる邪魔ものをかなぐりすて、これらの博士たちとともに、全世界に主キリストをあかしし、まごころから主を求め、わたしたちの救い主として主を讃美することを教えられます。この顕現祝日にあたって、博士たちと同じように、わたしたちもキリストの前に宝の箱を開いて、贈り物をささげることができます。では、どのようにしたらよいでしょう。そこで、次のみことばに耳を傾けましょう。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)。
                                   顕現祝日の説教