なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(120、復刻版)

       黙想と祈りの夕べ(通信 120[-15]2002・1・13)復刻版

 今日の礼拝に、昨年のクリスマス前後に召されたH兄とK兄のお連れ合いTさんとYさんが見えていました。お二人は80代後半と60代前半という違いはあっても、長年夫婦として連れ添った夫が召されて、一人になって、これからの生活をしていくことになります。しばらくは別離の悲しみや寂しさを抱えての生活が続くと思われます。お二人を覚えて祈っていきたいと願います。

 上記の私の発言に続いて、一人の姉妹が以下のように発言をしてくれました。

 暮れのテレビを観ていても、また新年になってきた年賀状の言葉を読んでいても、世界の平和についての願い、祈りが多かった。世界平和が地球規模で祈られているという実感を持った。若い人も年取った人も。喉元過ぎれば熱さも忘れるではないが、このことが時間の経過と共に忘れ去られないようにしたい。今年が平和の年であるように祈りたい。私は年を重ねるにつれて、多くの人から、植物や動物からも、元気をもらっているという感じを強くしている。若いときには、自分が自分がという思いが強かった。家族の者が花を愛でていても関心が薄かった。クリスマスに青年の参加が少なく、寂しかった。若い時には、自分を求めて生きていると思う。しかし、彼ら・彼女らも、いずれ周りの人や物から受ける恵を感じられる時がくるだろう。それまで、それぞれの生のエネルギーが守られて、必要な時になったら、教会が思い出されて、ここに足を向けてくれることを切に祈りたい。

 6日の「黙想と祈りの夕べ」通信のローズンゲンの日々の聖句の印刷が左右逆になってしまいまいた。悪しからず。この日の「ルターによる日々のみことば」は、当日の説教のテキストの箇所(マタイ2:1-12)と重なり、私の説教も、ルターのことばからヒントを得ました。ベツレヘムの馬小屋でのイエスの誕生は、「貧しさとみすぼらしさ」をあらわすこと。そして博士たちが、その貧しくみすぼらしい乳児イエスに、彼らが持ってきた宝物をささげたことです。ヘンリー・ナウエンの『イエスと共に歩む~十字架の道ゆき~』という本の一節を紹介しておきます。

 「道を、砂漠を、この世界の荒れた場所を歩く貧しい人びとは、謙虚になるように、とわたしたちを招いています。謙虚~humility~という言葉は、ラテン語のhumusから来ています。これは土、土壌を意味する言葉です。わたしは土に、土壌に近くとどまらねばなりません。わたしたちを覆っている雲を眺めて、その向こうに少しは今よりも開けた世界の到来を夢見ることがあります。けれども、自分の立っている足元の土壌に目を向け、長い厳しい道のりを一緒に歩こう、とわたしを招いている人々に、繰り返し目を向けることがなければ、わたしの夢はけっして実を結ぶことはないでしょう。貧しい人びととともに歩むとは、いったいどういうことなのでしょうか?

 それは自分自身の貧しさを認めることです。わたしの深いところにある破れ、飢え、力のなさ、いずれは死ぬ自分。これをしっかり見つめることでわたしは土と結びつき、そこで本当に謙虚になれるのです。そうです。そこではじめてこの地球を歩くすべての人びとと連帯できるのです。そして、わたし自身もたいへん壊れやすい、貴重な人間として愛されている、ということを発見できるのです」。
 
 「あけましておめでとうございます」。この年にもいろいろなことが起き、戸惑うことがあろうかと思いますが、イエスの道を歩んで参りたいと思います。

 
      「両親に従われたイエス」(『ルターの日々のみことば』より)

 「それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった」。
                                   (ルカ2:51)

 このことばによって、福音記者ルカは、主イエスの若き日の年月を言いつくしております。

 彼らにお仕えになった、とはどういう意味なのでしょうか。それは第四戒に関係したみわざをなされたということです。イエスは、水を汲んだり、パンや、肉を運んだり、家の番をしたり、そのほかいろいろ、普通の子供と同じように、言いつけられたことをしたのであって、両親が家庭で必要とする手助けの仕事いっさいです。ですから、神を愛するよい子らはこのように言います。ああ、わたしは子供のイエスさまに似せられて、イエスさまのなさったことに従うというにはまだほどとおいものだ。イエスさまはかんなくずを拾い、両親に言いつけられた仕事をし、家の中でしなければならない卑しい仕事を果たされた。もし、わたしたちがイエスの模範に従って、どんなに卑しいつまらない仕事でも両親が言ったことを喜んでするならばどんなよい子になることでしょうか。

 キリストは万物の主であるにもかかわらず、わたしたちの模範として、身をひくくして、両親に従われました。それゆえ、わたしたちも、大きな痛みをのりこえて、この物語を学び、従順に歩む時、祝福されたものとして感謝するのです。キリストご自身がこれらの義務をあきあきする面倒なものと考えておられないからです。
                                 1534年の説教から