そろそろ東日本大震災と東電福島第一原発事故から2年になろうとしています。疎開をすることができ
ないまま福島にとどまっている子どもたちの健康被害が心配です。神奈川教区では、今年もゴールデンウ
イークの時期に3泊4日で福島から子どもさんのいらっしゃる家族を招く保養プログラムを準備していま
す。
今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(179)」復刻版を掲載します。
黙想と祈りの夕べ通信(179[-22]2003.3.2発行)復刻版
先日開かれました教区総会での発言の中で「神」という言葉の使われ方が気になりました。私の率直な
感想では、何の規定もなく使われる「神」は、それを使う人に都合よい形で用いられることが多いように
思います。イエスという方は、福音書を読む限り、ご自分ではほとんど神について語っていません。もし
イエスの言行において神が語られているとすれば、イエスの言行における神は、私たちの中に葛藤を引き
起こす存在ではないでしょうか。イエスの譬え話や奇跡物語にしろ、あるいはファリサイ人との論争物語
にしろ、あるいは受難物語、復活物語にしても、みなそうです。つまり、私たちのあり様を根底から問い
かける衝撃がイエスの言行における神にはあるのです。ところが、自明のごとく語られる「神」には、私
たちの葛藤をもたらす響きは皆無で、あたかもすべての問題は「神」を持ち出すことによって解消されて
しまうかのような、マジックとしての「神」のように感じられます。それとは対照的ですが、「働く人」
を読んでいて、亡くなったMさんのことを書いたSさんの文章の中にこういう言葉を発見しました。「最
も弱い立場におかれた人の位置にまで身を低くされた十字架のイエス・キリストの神」。内容既定のない
「神」の使用には気を付けなければならないと思いました。
上記の私の発言に続いて、同じ教区総会に出席した方の発言がありました。自分も教区総会で感じたこ
とになるが、今回按手礼を受けて牧師になった何人かの人の語る言葉は、コトバ(話し言葉)ではなく文
章だったと思った。彼らはコトバではなく記憶した文章を読んでいるだけで、言葉の意味や方向性を考え
て発しているとは思えなかった。ただ反射的に文章を読んでいるだけの感じた。自分は常々どうしたらみ
んなと仲良く、というか、さまざまな立場の者が一つの教団をつくっていけるかを考えて来たが、彼らの
語る言葉を聞いていて、ますまし厳しく感じた。
(もう一人の方の発言は、省略します。)
「みことばを聞け」(『ルターの日々のみことば』より)
「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教えが神からのもの
か、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう」
ヨハネ7:17
人間イエスの云われたことを聞き、そのみことばに耳を傾けるのが父のみこころです。みことばに対し
ては、賢くあって、それを征服し、それについて議論しようとすべきではなく、単純に聞くべきです。そ
の時、聖霊がくだって、あなたの心を動かし、みことばを信じ、心の底から、「これは神のみことばであ
り、まことの真理である」と叫ばせ、あなたの人生をそれにかけるようにしてくださいます。反対に、も
し自分自身が聞かれることを望み、自分の理性によってみことばを消そうとし、またもし、みことばを自
分の思想に従わせ、その中に偽りの教えをまぜ、どのようにしてみことばを理解し、量り、まげようかと
ほじくり回し、こずき回し、それによって自分の気に入るようにみことばが響くようにしようとするなら
ば、またもし、なにか疑っているかのようにみことばを考察し、自分の思いにしたがってみことばを判断
しようとするならば、このような態度はみことばを聞いて弟子となることではなく、その主人となること
です。
このような場合には、みことばを理解して、「これこそ神のみことばである」と告白できるようにはけ
っしてなりません。それゆえ、あなたの理性を封じこみ、あなたの知恵を足下に踏みつけ、救いの問題
で、考えたり、感じたり、手探りで捜し求めるためにこれらを使用せず、ただ神の子のことばにのみ耳を
傾けて、そこに立ちどまりなさい。聞け、聞け、これが命令です。これこそ、わたしたちの主なる神のみ
こころを忠実に行うことであります。主は、だれでもみ子に聞く者は聖霊を受け、光に照らされて、それ
が神のみことばであると正しく理解できるようになると約束されました。神はその人をみこころにかなう
人につくりかえられます。これこそ、主の働きです。
ヨハネ福音書6-8章の説教