船越通信、№650 2025年1月26日(日) 北村慈郎
19日(日)は礼拝後、Nさんに13日(月・休)に開催された教区伝道委員会主催の伝道フォーラム「未来志向の教会形成~できることは山ほどある~」(講師:キリスト新聞社のMさん)の報告をお願いしました。Nさんからは、この集会の報告は次号の教会だより「船越の丘から」に掲載予定であると言われた上で、以下の報告がありました。
この集会の出席者は30人で、船越教会からは3名が出席した。昨年12月8日に行なわれた船越教会の修養会で、新しい方への伝道について話題になったので、何か参考になることがあるのではと思って参加した。講師のMさんは、①キリスト教関係施設の売却、キリスト教書店の閉店、キリスト教主義大学の学生募集停止など厳しい現実がある。②教会も無牧や兼牧の教会が増えている。③そういう状況の中で、「量より質。人数を気にするな」など、ありがちな言い訳をしていないか。④教会には他の人には通じない教会用語や閉鎖社会のようなところがあるのではないか。⑤できることとしては、船越教会の修養会でも話し合った「兼牧・複数教会を前提にした体制づくり、オンライン配信の環境整備など、いろいろあるのではないか。以上。
その後、京急田浦駅前でガザ支援のスタンディングを行ないました。参加者は4人でした。この日は人通りが少なめでしたが、2人の方がカンパしてくれました。スタンディング後Nさんと教会に戻り、Nさんが帰った後、「かながわ明日の教団を考える会」の案内ハガキの印刷をしてから、午後2時過ぎに船越教会を出て、バスで追浜に出て、鶴巻に帰りました。
20日(月)には、「第84回かながわ明日の教団を考える会」の案内葉書を出しました。この「かながわ明日の教団を考える会」は、沖縄教区総会決議議案である「名称変更」議案をはじめ「合同のとらえなおし」関連議案が全て審議未了廃案になった2002年秋の教団総会があったその年の末に、有志によって立ち上げました。この2002年の教団総会後に、沖縄教区は教団との間に距離を置くようになって、現在に至っております。昨年の秋の教団総会にも沖縄教区は教団との間に距離を置いていますので、教団総会議員を出していません。ですから、「かながわ明日の教団を考える会」は、合同のとらえなおし問題等を切り捨てている現在の教団の在り方を批判して、神奈川教区で活動している有志の会です。第83回が行なわれたのが2010年1月です。コロナ感染拡大以降は、対面での集まりは行なっていません。必要な時には手紙や葉書で連絡を取り合って来ましたが、今回は対面の集まりにしました。私は最初の呼びかけ人の一人になっていて、5~6人いた他の呼びかけ人は皆他教区に転任しましたので、ある時期から私一人になって、この「かながわ明日の教団を考える会」の事務局を引き受けています。
2004年の教団総会では総会期中に有志で「沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』を進める連絡会」(略称「もとすす連絡会」)を立ち上げました。この「もとすす連絡会」の現在の世話人代表も私がしています。
また、2006年の教団総会では、私は教団総会の礼拝で行なわれた聖餐式に沖縄教区の議員がいませんでしたので与りませんでした。その教団総会で私は常議員に選ばれましたが、この総会期の最初の常議員会で教団総会の礼拝で聖餐式に与らなかったことが問題にされて、次回常議員会で記録を取らない自由な懇談の場という設定で「聖餐いついて」の発題を当時の山北議長から依頼されて、紅葉坂教会における「開かれた聖餐」執行に至る経過を話しました。この記録をとらない懇談会での発題を根拠に、私は山北議長から教師退任勧告を受けました。そのことが発端となって、2010年9月26日に最終的に私は教団教師免職処分を受けることになったわけです。
そういう歴史を考えますと、「かながわ明日の教団を考える会」、「もとすす絡会」「私の戒規免職処分」は、密接不可分な関係にあると言えます。「かながわ明日の教団を考える会」は発足から22年が経ちました。現在神奈川教区の諸教会・伝道所の中には教職の代が変って若くなっている所もありますので、問題や課題の継承がなかなか難しいところもありますが、出来る限り継続していきたいと思っています。
21日(火)は朝9時過ぎに鶴巻を出て船越教会に行きました。この日娘に会社を休んでもらい、彼女の運転する車で、船越教会に保管してある神奈川教区のオリエンテーション委員会の資料、教団の『三委員会連絡会報告書』と『オリエンテーション・ガイドブック』の入った小さめの段ボール9箱を教区事務所に運ぶことになっていたからです。私が先に船越教会に来て、既に教会の玄関に出しておいた段ボール箱を小さな台車で教会の外階段上まで運び、それを楽ちん号(昇降機)で階段下まで降ろします。さらにそこから30メートル先の向かいの道路わきに止まっている娘の車までキャスターで運んで、娘の車に載せます。その作業を3回くり返して完了です。船越から蒔田の教区事務所まで約30分ほどで着きました。教区事務所には、事務所の大きな台車で2回に分けて運び入れて、この日の作業は完了しました。
その後娘の運転する車は鶴巻に駐車場がありますので、権太坂から高速に入り、海老名パーキングで一休みして鶴巻に帰りました。鶴巻に帰ってから教区副議長のS牧師にメールで連絡したところ、『三委員会連絡会報告書』は次回2月の常置委員会でみなさんに配るようにするというメール返信をいただきました。
現在常置委員会で教団の二種教職制についての議論をしていますので、その資料にということではないかと思います。オリエンテーション委員会では、委員に分冊だった『三委員会連絡会報告書』をPDFにして一冊にまとめてもらい、それを印刷所に出して複製を作りました。オリエンテーションで二種教職制や教師検定問題を取りあげる時の資料とするためです。それを今回教区の副議長から常置委員会での二種教職制の話し合いの資料にと言われて、教区事務所にお持ちしたという訳です。それと船越教会に置いておくと、私も年ですので何時どうなるかわかりませんので、オリエンテーションの資料として教区事務所に保管してもらえれば、それに越したことはないと思ったからです。
22日(水)午後5時半からリモートで基地・自衛隊問題小委員会(基地小)があり、私も参加しました。この日の委員会では、各地の報告の後、3月発行予定の基地小通信第3号の依頼している原稿の督促と、他の原稿の確認をすると共に、社会委員会主催の平和フェスタ(3月20日)への参加を確認しました。1時間ほどで終了しました。
23日(木)は国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行き、その後午後6時半からなか伝である寿地区活動委員会に出席しました。この日は鶴巻を午前11時半前に出て、帰って来たのは午後9時半過ぎでした。