注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 (ヨハネ3:16)
③ 讃 美 歌 152(みめぐみふかき主に)
https://www.youtube.com/watch?v=vRux1C6f7kA
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編44編1-9節(讃美歌交読文48頁)
⑥ 聖 書 ヨハネによる福音書20章11-18節(新約209頁)
⓻ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 424(美しい大地は)
https://www.youtube.com/watch?v=AvWsyMJTT-c
- 説 教 「後ろを振り向くと」 北村慈郎牧師
ヨハネによる福音書では、甦ったイエスに最初に会ったのはマグダラのマリアです。その二人の出会いが、20章1-10節の「空の墓」の物語に続いて記されています。
11-13節を読みますと、<マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」>(新共同訳)。
ペテロと愛弟子が立ち去った後、マグダラのマリアだけが、ひとり墓の外に立って泣いていたと、言われています。二人の男弟子は墓から立ち去りますが、マグダラのマリアは立ち去ることが出来ず、イエスの墓の前に立ちつづけ、泣き続けていたと言うのです。
彼女はまだ、イエスが甦られたことを信じてはいません。彼女は、誰かが愛する主イエスの死体を、墓から運び出して、どこか他の場所に移したのだと思っていたのでしょう。そして、彼女の心は、主の死体がどこにあるのか、それを知りたい、一目見たいという思いで、いっぱいでした。マグダラのマリアは、イエスの死への思いを断ち切ることが出来ずにいたのだと思います。
彼女が墓の中をのぞき込むと、イエスの死体の置かれていた所には、白い衣を着た天使が、ふたりいるのが見えました。しかし、そのふたりの天使を見たマリアの反応については、ヨハネ福音書記者は何も記していません。
井上良雄さんは、「それは、そういう光景に驚いたり恐れたりする余裕もないほどに、彼女の心が、イエスの死体を見たいということに、一途に向けられていたということでしょうか」と言っています。
<天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと>、彼女は、まるで相手が普通の人間であるかのうように、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答えます。
14-16節を読みますと、<こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である>。
ここで劇的な転換が起こります。14節に<こう言いながら後ろを振り向くと……>とありますが、マリアは、これまで空の墓にだけ向けていたその目を転じて後ろを振り返ります。
これまで死の闇だけを見ていた目が、ここで初めて、光の方に向けられます。死の現実だけを見ていた目が、ここで初めて、命の方に向けられます。すると、そこにイエスの立っておられる姿があったと言うのです。
しかしマリアは、最初それを、イエスとは気づきませんでした。イエスは、彼女に、<婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。>と言われます。彼女はそれを、誰か園の番人だと思って、<「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。>と答えます。彼女は、あくまでも墓に葬られたイエスの死体がどこにあるかということに心を向けています。
そこでイエスが、彼女に、今度は<婦人よ>ではなく、<「マリア」>と、彼女自身の名で呼びかけます。私たちは、10章のあの「よき羊飼」の箇所で、よき羊飼いについて、「彼は自分の羊の名を呼んで連れ出す」(3節)と言われていたのを、思い出します。あの言葉の通りに、イエスは、私たち一人一人の名を知る方として、一人一人の名を呼ぶ方として、彼女に対して、「マリア」と呼びかけているのです。
この「マリア」という名――この名の中には、彼女がこれまで生きて来たその生活の全体がこめられていると、言うことができます。彼女が、言い伝えられているように、売春というようなことをしていた女性であるかどうかは、全く疑問であるにしても、ルカ福音書に「七つの悪霊を追い出してもらった」(8:2)と記されていることからも窺えるように、苦しいことの多かったはずの彼女の生涯全体が、この「マリア」という名には、こめられていたはずです。その名で、イエスは、彼女に呼びかけられたのです(井上良雄)。
この一言で、マリアにとっては、すべてのことが全く明らかになります。二人の間に立ち込めていた霧のようなものが、一瞬にして晴れ上がります。イエスに対して、彼女の口から、「ラボニ」とう言葉が発せられます。「ラボニ」というのは「ラビ」と同じで、続けて記されているように「先生」という意味です。彼女は、「先生」と呼ぶわけです。この彼女の呼びかけの言葉には、思いがけなくイエスの姿に接した彼女の喜びと愛が、こめられているように思われます。
しかし、甦ったイエスに対する呼びかけは「主よ」がほとんどで、甦ったイエスに対して、「先生」というような呼びかけをしているのは、このマリア以外にはないと言われます。ヨハネ福音書でも、ここから後、次の21章の終りまで、いろいろな弟子たちが甦ったイエスに出会うわけですが、その場合に、彼らは皆イエスに対して、「主よ」という呼び方をしています。
それに対して、弟子たちがイエスを「先生」と呼んでいるのは、イエスがまだ弟子たちに囲まれて、地上の生活をしていた時に、弟子たちが、自分たちの指導者としてのイエスを呼ぶために用いた呼び名です。マリアがここで、甦ったイエスに出会っているのに、「先生」と呼んでいるということは、かつて自分たちと一緒に地上を歩まれたイエスの姿の延長線上でしか理解していないということではないでしょうか。
しかし、今後彼女の目の前で起こっている出来事は、そのようなことではないのだということを、彼女は知らねばなりません。そして、そのことを、彼女に対して教えているのが、17節です。
17節を読みますと、<イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。また父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」>。
この17節では、イエスは、イエスを見て「すがりつこうとした」マリアを制止します。その理由として「まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われています。そして、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい」と言って、「『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」、イエスの神への帰還である昇天が示唆されています。
ヨハネ福音書記者は、甦ったイエスは、昇天して神へと帰還することによって、神とイエスがもたらす新しい命と愛が信じる者たちに賜物として与えられるのだと語っているのです。
1:18節でヨハネ福音書の記者はこのように述べています。<いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである>と。
このイエスと神との関係が、イエスの甦り・昇天を通して、今や弟子たちである信仰共同体の神との関係の特徴となるのです。16節における甦りのイエスとマリアの関係の力と親密さが、17節ではその力と親密さが信仰共同体のすべてのメンバーのために開かれているのです。このことは、ヨハネ福音書16章25―33節のイエスの告別の説教で語られた約束の成就を意味します。
その告別の説教では、イエスが神と一体であることを弟子たちが信じたことに対して、イエスは、<今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている>(16:31-33)と語っているのです。
この告別説教におけるイエスの約束は、イエスの十字架上の死・復活・昇天によって実現成就していると、ヨハネ福音書記者は語っているのです。ですから、<『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』>と言われる、その生涯と十字架死、復活と昇天のイエスを信じる者は、イエスの内に神を見る者として神の子として生きる意味を知ることができるのです(オデイ)。
私たちは、この現代のさまざまな問題に満ちた、この生きづらい社会の中で日々生きてい行かなければなりません。積極的にこの社会にコミットするにしろ、必要最低限の関わりだけ持って、自分の世界を築いていくにしろ、他者との関係と共にこの現実と対面していかなければなりません。
その時、空の墓にイエスの死体がどこにあるかを探すマグダラのマリアのように、自分一人で目の前にある現実と対面するのではなく、後ろを振り向き、死に勝利した復活の主イエスが共にいて下さることを見失わないようにしたいと思います。
そのイエスは生前のイエスであり、十字架死と復活・昇天を通して、今は神と共にあるイエスです。そのイエスが神と共に霊において今も生きて私たちと共にいてくださるのです。そのイエスの中に神を見ることによって、私たちも神に尊厳を与えられた神の子どもとして、同じ神に尊厳を与えられている神の子どもである他者と共に、生きて行くことが許されている幸いを噛みしめながら生きていきたいと思います。
主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!
祈ります。
神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを、心から感謝します。
神さま、マグダラのマリアのように、あなたといつも共にいつもおられたイエスが、私たち一人ひとりの傍らにいて、あなたの命と愛を注いでいて下さることを信じて、私たちもイエスの兄弟姉妹であるあなたの子どもとして、日々歩むことができますようにお導きください。
神さま、どうか今戦争や貧困・差別、また自然災害によって苦しむ人々を支え、助けて下さい。国や人々の支援が苦しむ人々にいきわたりますように。
世界が平和な世界になりますように!
私たちを平和を造り出す者にしてください。
他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
- 讃 美 歌 318(勝利の声を)
- https://www.youtube.com/watch?v=hyvCh5xxoXQ
- 献 金
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。