なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(84)「イエス復活する」ヨハネ20:1-10

1月19(日)降誕節第4主日礼拝

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。   (ヨハネ3:16)

③ 讃 美 歌     205(今日は光が)

https://www.youtube.com/watch?v=AiXb2QVdWxY

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編40編6-12節(讃美歌交読文44頁)

⑥ 聖  書   ヨハネによる福音書20章1-10節(新約209頁)

⓻ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     430(とびらの外に)

https://www.youtube.com/watch?v=IFhsDFjzIcY

  •  説  教   「イエス復活する」        北村慈郎牧師

 

ヨハネによる福音書の20章・21章には、いろいろなイエスの復活物語が記されています。先ず最初は、今日のテキストであるヨハネ福音書20章1-10節に記されています「空虚な墓」の物語です。この「空虚な墓」の物語から、今日は私たちへの語りかけを聞きたいと思います。

 

エスは十字架につけられ、その死体を十字架から取り下ろし、アリマタヤのヨセフとニコデモが、安息日が始まる前に慌ただしく新しい墓にユダヤ人の習慣に従って、イエスの死体に香油を塗り、亜麻布で巻いて埋葬しました。安息日が始まりますと一切の労働が禁じられていましたので、何もできなくなるからです。イエスの納められた墓に様子を見に行くのも、金曜日夕方から土曜日の夕方までが安息日ですから、安息日が終わっても既に夜ですので、次の一週の初めの日(日曜日)の朝がくるまでできませんでした。

 

エスの復活は、土曜安息日が明けた、日曜日の早朝の出来事であったということは四福音書が一致して証言しています。

 

さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤはイエスの墓に向かいます(1節)。他の福音書ではマリアは数人の仲間と一緒にイエスの墓に行きますが、ヨハネ福音書では彼女一人でイエスの墓に行きます。ヨハネ福音書では、このマリヤは、イエスの十字架のそばにとどまっていた数人の女たちの中にもいました(ヨハネ19:25)。ヨハネ福音書記者は特別なまなざしをこの一人の女性の上に注いでいるようです。

 

マグダラのマリヤの経歴の大部分は不明です。ただ彼女はイエスに「七つの悪霊を」追い出してもらった者のひとりであると、はっきりと告げられています(マルコ16:9,ルカ8:2)。すなわち、彼女は重い精神的障害をもっていたと思われます。そしてイエスが彼女を救い出してくださったことに対して、彼女は無限の感謝の思いを抱いたと思われます。ですから彼女は、イエスの十字架の下には誰よりも最も長くとどまり、イエスの埋葬された墓には最も早く来たのです。彼女は、安息日が終わって、三日目の日曜日の朝になってイエスの埋葬された墓に来るまで一睡も休むことができなかったに違いありません。彼女は、まだ暗い内に、光もないうちにイエスの埋葬された墓にやって来たのです。マグダラのマリアは、それだけイエスから受けた救いに感謝して生きていたということだと思います。

 

このようなマグダラのマリアとの関りでライルはこのように述べています。【私たちは、罪の深さとキリストの驚くべき惠みを、より明らかにはっきり見ることができるように、日毎に祈ろうではないか。そうするならば、そうした時だけ、私たちはイエスのために働くことにおいて冷淡で、なまぬるく、いい加減であることをやめるのである。そうするならば、そうした時にだけ、マリヤが持っていた燃えるような熱心を理解し、「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(Ⅱコリント5:14,15)というパウロのことばの意味を十分に理解するであろう】。

 

マグダラのマリアはイエスが埋葬された墓に行くと、驚いたことに墓の入り口にはめ込まれていた大きな石が取り除かれていました。マリヤはびっくりして、すぐにペテロともうひとりの弟子――19章26節に出てくる「愛弟子」をさしていると思われますーーの所に行って、そのことを告げます。<「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」>(2節)と。

ペテロと愛弟子は、急いでその墓に駆けつけます。この記事はヨハネ福音書特有のものです。墓についたのは愛弟子の方が先でしたが、彼は墓の中には入りませんでした。ペテロは少し遅れて来ましたが、墓の中に入り墓の中を見ると、イエスの死体は消えて、イエスが身につけておられた亜麻布と頭に巻いておられた布が、残されているのを発見します。そのことは、イエスの死体が決して盗まれたのではないということの証しになっています。

 

先に墓に着いた愛弟子も、ペテロに続いて墓に入り、「来て、見て、信じた」(8節)と言われています。

 

二人の弟子たちは墓の中で何を見たのでしょうか。イエスの死体を包んでいた布や亜麻布を見て、ととることはできるでしょう。しかし、イエスの死体はそこにはありませんでした。 弟子たちは、イエスの死体がそこにないことを見た。そして愛弟子は信じたというのです。とすると、彼は見て信じたのではなく、基本的にはやはり見ないで(見たとすれば、ないものを見て)信じた、ということになります。復活を信じるということは、何かのしるしや奇跡を見て信じるのではなく、見ないで信じることなのです。

 

オデイは、「マルコ16章1-8節では、女達は天使達の言葉による証言を聞くが、にも拘らず、彼女らは恐怖に駆られて動転して墓から逃げ出す。ヨハネにおいては、純然たる空虚の墓とイエスが捨てた埋葬着が暗示的にそこに在るのみである。それでも愛弟子は信じる。/空虚な墓が信仰に導くことがどうして可能なのか? …愛弟子が信じたのは彼が既に信じていたからである。つまり、愛弟子はイエスを信じ、イエスと神についてのイエスの約束(例えば、14:1-3,18-20、23,16:33)が真実であることを信じていたが故に、空虚な墓を見た時、彼はそれが意味するところのもの――イエスが既に死を征服したことーーを知ったのである」と言っています。

 

ヨハネ福音書14章18-20節には、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしは生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父におり、あなたがたがわあたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたには分かる」と言われています。

愛弟子は死に対するイエスの勝利がどのような形を取ったのかを知らなかった。彼は死に対するイエスの勝利が生きている人々の間に示されるだろうということを知らなかった。彼は自分が墓の中で見たことをどう語るべきかさえ知らなかった。彼が知ったことはただ、埋葬着が彼に告げたことーーイエスが死に打ち勝ったということだけであった」。

 

つまりイエスは、死者としてではなく、命の主として生きて私たちと共にいるということです。愛弟子は空虚な墓の前でそのことを悟ったのです。

 

さて死を命に変えるイエスの甦りの命とは、どのような命なのでしょうか。精神科の医者でキリスト者の柏木哲夫さんという方が、『心をいやす55のメッセージ』という著書で、「生命と命」という題で、ヨハネ福音書の14章6節の「イエスは彼に言われた。『わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通らなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』」をテキストをめぐって書いています。その中で、ある学会で特別講演された方が、その講演で「生命と命とは違うと思います」と言われたことに言及しているところがあります。

 

<「生命というのは閉じられているという特徴がある。それに対して、命というのは開かれているという特徴がある。生命というのは有限であるけれども、命というのは無限である」。だから二者は違うのだというのです。

 

 確かに私たちは「生命」という言葉と「命」という言葉を、どこかで分けて使っているように思います。私も「生命」には閉じられた有限さを感じます。「生命保険」の生命もどこかで終わってしまうような印象があります。「生命維持装置」も、それを外せば生命は終わりです。

 

 それから、生命は人間の皮膚の中に閉じ込められているという感じがします。心臓が動き、肺が動き、内臓が動いて、私たちの生命を保っているわけですけれども、それは体全体を覆っている皮膚の中に閉じ込められた生命です。

 

 しかし、「命」という言葉は皮膚を突き破って拡散するというか、広がるというか、そういう性質をもっているのではないかと思います。 たとえば、「この病院の命は全人医療です」という場合、「命」もずっと続くもの、広がるものという、そんな感じがします>。

 

私はこの生命と命という言葉の違いからヒントを得て、こんな風に思い巡らすことができました。十字架上で確かにイエスの生命は絶えたが、イエスの命はその死を越えて輝いていると。生前のイエスの活動も、死を越えて輝く神からの贈り物としての命のために自分の生命を捧げて生きたのではないか。命を使って生きるために自分の生命を捧げたと。復活の主イエスに出会って、十字架を担って生きるということは、そういうことではないかと思うのです。

 

そこで改めにて福音書の次のイエスの言葉を思い起こします。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10:39)

 

生命は自分の皮膚の内側に囲い込まれていますが、命は自分の皮膚の内側に囲い込むことは、そもそもできないことなのです。それを無理にしようとすれば、かえって私たちは命を失うのです。逆に命の主であるイエスを信じて、命を使って生きるために自分の生命を捧げる者は、かえって命を得ることになるのです。

 

「空虚な墓」が物語るイエスの復活の命とは、そのような命ではないでしょうか? 愛弟子は「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)と約束された命の主であるイエスを、「空虚な墓」に「来て、見て、信じ」たのではないでしょうか。

 

私たちも、死に打ち勝った命の主であるイエスの復活を物語っている「空虚な墓」を思いめぐらして、イエスの愛弟子のように、またマグダラのマリアのように、「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(Ⅱコリント5:14,15)というパウロのことばの意味を十分に理解する者として歩んでいきたいと思います。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを、心から感謝します。

神さま、今日はイエスが埋葬された「空虚な墓」の前で、イエスに愛された弟子が「来て、見て、信じた」のは、命の主であるイエス御自身であったことを知りました。復活の主イエスは死に勝利し、今も私たちに命を与え続けてくださっていることを覚え、心から感謝いたします。

けれども、神さま、私たちの現実の生活では死が猛威を振るっているように思えてなりません。そうぞあなたが与えて下さったイエスに命によって、私たちが互いに愛し合って、皆が幸せに生きることができますように、私たちを導いてください。

神さま、どうか今戦争や貧困・差別、また自然災害によって苦しむ人々を支え、助けて下さい。国や人々の支援が苦しむ人々にいきわたりますように。

他者のために働く人々を力づけ励ましてください。

今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

  •  讃 美 歌    333(主の復活、ハレルヤ)

https://www.youtube.com/watch?v=ooDNpczQ2xY

  •   献  金
  •  頌  栄  28                                                    

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬  祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。