なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(168)

 今日は「父北村雨垂とその作品(168)」を掲載します。

               父北村雨垂とその作品(168)
  
  原稿日記「四季・第一號」から(その6)

 悟りと無意識なる現象世界

 現象そのものに意識は有り得ない。故に意識は現象したものの而かもそのうちの或るものの次元に於い

て生成する現象である。言葉を約して言えば、意識は或る現象の二次的現象として生成消滅する或るもの

で、而も現象それ自体は意識なるものは認められない。その故に禅に於ける悟りは、只管打座はそうした

修業を重ねることによって「無」とか「空」とかと曰われる現象そのものの状態(構造)へ帰る二次的現

象以前なる無意識なる現象の本態に回帰する即ち一歩一歩と重ねる行であると考えられる。

                    1982年(昭和57年)12月2日

 西田幾多郎から田辺元え。それから引継がれたいわゆる京都学派の絶対無と弁証法の流れがさまよう源

泉はこのあたりに在る。私の云う純粋意識即ノエマとその次元と観るノエシスは勿論ヤスパースの持論と

はいささか異なるが、而しそれは第二次世界戦争中に西田哲学に私淑していた時代のことであり、すでに

四十年を経ており、当時の蔵書は戦災に一部損失した以外は当時の部下が帰還し体力の関係等で古本屋を

希望するからと援助を要請してきたので残本を全部彼に与えた為めと私個人の経済的事情により再確認が

不可能となったので或は両者の著書からうえけたものであるかどうかに不安があるが、若し両学者の論理

の内に同様のものがあれば、それは私の考察でなく、両者の著作から受けたものである事を改めてお断り

しておき度い。  雨垂
                   1983年(昭和58年)1月2日

 意識が生命である。

 現象が生命を支配する。

 生命とは肉体が構成する意識がそれであり、肉体は現象によって構成される。そして存在とは、意識が

肯定する現象であり、非定も非存在を意味する意識の現象と云うことである。即ち意識を意味する現象が

生命をも含めた存在となる。即ち働らく意識の現象と云う命題が成立するゆえんである。

                  1983年(昭和58年)1月31日  雨垂

 現象の安定性の是非が、意識の活動原である。

                  1983年(昭和58年)1月31日

 例えば慈雨を横殴りする嵐のように

 確かなる春を招んで呉れたすずらんが牛を殺すように

 太陽が東から天上に駆け上がると間違いなく

 夕べが西山に追いやって暗黒の幕をおろすように

 神が創造した愛を殺(あや)めるように

 それを「何」も知らない児ども達は泥だらけになって

 鮒や泥鰌を追ひかけている

 それでも例えば

 神にも反省の季節があったことを四度も告白している。
 
                  1983年(昭和58年)2月12日

 釈尊と達磨は理性的知性による哲学に実践の採択によって大悟したが、六世惠能は環境に培われた実践

に彼本来の感性が経文の一種の刺激に援護せられて大悟したと観られるし、臨済義玄も前二者と同じく知

性と実践との共同作業によるものと観られるが、そのいづれにしても各々に天才的な素質の有ったことを

見落とすべきでない。
                   1983年(昭和58年)2月16日