なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(180)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(180)「復刻版を掲載します。

 下記に記しました私の友人で、44歳で蜘蛛膜下で倒れ半身不随と全盲になったS君は、昨年末に71歳で

帰天しました。

   
        黙想と祈りの夕べ通信(180[-23]2003.3.9発行)復刻版

 先週は風邪を引いて数日休まなければなりませんでした。久しぶりに熱が39度位まで出て、体がだるい

状態でした。その原因の一つは、月曜日に名古屋から小学校時代の友人が横浜に来て、いつも集まる4人

で、その中の一人で私とは小学校から高校まで一緒の学校に通ったS君宅で話し込んだことにあります。

S君は大学卒業後日産関係の会社に入り、組合で活躍していましたが、44歳の時に蜘蛛膜下により全盲

なり、半身に軽い麻痺を抱えながら連れ合いに支えられてほとんど自宅で生活しています。18年になりま

すが、口は達者です。昔から毒舌家で、それは今も変わりません。名古屋の友人は恵まれた家庭で育ち、

国立音大を出て名古屋でピアノの調律をしています。彼の連れ合いが子どもが小さい頃に統一教会に入っ

て、教団の牧師ということで彼女から私は煙たがられています。もう一人の友人は工業高校を卒業後ディ

ラーの会社に入り、昨年6月に引退し、今は遊びまくっています。彼はよく私に、「慈郎みたいに、遊

んで食べているのとは違って、自分は働き続けたのだから、これから自由に遊ぶのだ」と言っています。

久しぶりに4人が会って、随分長い時間を共にしましたが、不思議に違和感なく楽しく過ごしました。こ

の4人は名古屋の友人が横浜に2年間(小学校5年生、6年生)いたときの同級生です。卒業して50年になり

ますが、この50年間のそれぞれの人生を考えると、不思議としか言いようがありません。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から次のような発言がありました。昨日の青年会の集まりでヨブ記

を読んだ。最初にヨブ記の文学、その概論について話し、それぞれの思いを語り合った。ヨブの問いは不

条理への問いであり、カミュの『異邦人』にも通じ、阪神・淡路大震災にも通じる。青年の中に、すべて

論理的に説明できる、数式で表せないことはないと発言した人がいた。それに対して、論理的に説明でき

たからといって、余り意味が無いという意見もでた。頭が良いとか悪いとはどういうことか、という話に

なり、「頭が良い」ということは勉強が出来ることとは違うとか、回転が速い遅いでもないという話にな

り、一人の人が、人を幸せにする能力、自分を幸せにする能力ではないかと言った。その言葉が響いた。

 また、別の方からの発言がありました。先日ラジオで、引きこもりについて識者にアナウサーが、いつ

頃からそういうことが起り出したか、原因や年齢、また状態についてインタビューがあった。年齢は小学

生から大学生まで、原因は、登校拒否から、社会に出てからと、答えはいろいろだった。その中で、家か

ら外に出なくても、家族と一緒にご飯を食べられる人は引きこもりとは言えないと言われていた。引きこ

もりは日本独特の現象で、アメリカにはないと言われる。何故なら、アメリカでは小さい時から一人一人

独立して生きていくことが求められるので、引きこもっていられないという現実がある。その代り、スト

レスが強く、社会に犯罪や麻薬などの問題が起こっている。引きこもりを許容する日本社会とアメリカ社

会を比べてどちらがよいかどうかは分からない。識者の中には、日本の社会も後何年かすると、子どもた

ちは家に引きこもっていられなくなるという人もいる。何故なら、その頃に親になる世代の人たちは、引

きこもりを許容できず、無理やりにでも子どもを自立させるだろうからと言う。今の引きこもりの現象が

マイナスかどうか考えさせられる。引きこもりには精神的な成長と結びつく面もある。一人で考える引き

こもりもよし、社会に押し出されて人と接して生きていくのもよし、両方許される自由があったらよいと

思う。



       「心のうちに十字かを負え」(『ルターによる日々のみことば』より)

 キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。 第一ペテロ4:13

 病気、貧乏、苦痛などを、十字架ということはできません。その名称に値しないのです。しかしもし、

信仰のために迫害を受けるようなことがあれば、十字架と呼ぶにふさわしいでしょう。どのようにしてそ

れを見いだしますか。それは修道院の中ではなく、福音と、福音の正しい理解のうちに見いだします。あ

なた自身を知ること、あるいは、十字架を知ること、十字架を認めることです。どこにそれを見いだしま

すか。あなたの心のうちです。そこに見いださないならば、表面上、十字架を負っていても、なんの役に

も立ちません。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分の十字架を負うて、わたしに従ってき

なさい」。このことばに対して、「わが主、わが神よ、わたしがそれに値するものになれたらと望みま

す」と言えるところまで到達しなければなりません。聖徒たちと同じように、十字架を喜ばねばなりませ

ん。

 十字架のほまれは、内的な、心の中のものでなければなりません。すなわち、わたしは苦しまなければ

ならないことを神に感謝するのであり、その感謝は、十字架や死に対する喜びの意志からあふれてくるの

です。

 あらゆる人々が死をおそれているのに、なんとすばらしいことではないでしょうか。このような状態こ

そ、きよめられた十字架です。
                               1527年の説教から