なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(169)

 今日は鶴巻にいます。昨夜船越で聖書研究の集まりに出て、それから鶴巻に移動しました。今日はこちらで用事があり、それを済ませてから、明日ここから教区総会に直接行くか、今日のうちに船越に行くか決めようと思っています。

 「父北村雨垂とその作品(169)」を掲載します。


               父北村雨垂とその作品(169)
  
  原稿日記「四季・第一號」から(その7)

 禅に於いては現象を差別界(現象世界)と観ているので、臨済録に於ける三界無安の條で三身仏を説く

中で云っている清浄光→法身仏にそれがよく現われている。即ち差別界そのまま差別界(現象世界に於け

る現象それ自体として)そして何等かの主観も持たず客観的意識のままで(何等の意識の作意なく)働く

意識を重要視している。即ち法身仏 ― 一念心上清浄光 ― 一念心上無分別光 ― 報心仏 ― 一

念心上無差別光 ― 化身仏と説いている。以上は禅の骨髄となっている許りでなく仏教そのままが論理

を超えた究極の眞髄をここに観ているのである。

                      1983年(昭和58年92月18日

 臨済録の中にある三界無安の條は同録中も重要な臨済の言であり、禅の眞髄を表現している一段であっ

て「悟りの構造」には必ず引例しておかねばならない。

                      1983年(昭和58年)2月18日

 臨済録岩波文庫p.70)にある心外無法に重大な意味がある。即ち心即ち意識であり、之を外にして法

即ち眞理は考えられない。眞理はまた自然現象の相であり、体でもあること次で考えている。

                      1983年(昭和58年)2月22日 雨

 臨済録岩波文庫p.79)示衆に於ける「有身は客体に非ず。無相即ち眞形」とある。即ち現象以前の本

体或は基体を予想しての言である。


 臨済は心と意識と云う表現をしなかったので心心不実などと心を二つ並べて使用しているが、精しく別

ければそのどちらかを意識と表現する仕方の方が明確となる。即ち意識は客観主観の母体であって客観主

観のいづれか一つを意識の働きに於いて生成するしそれに続いて主観となるもので朝比奈宗源師は心と意

識として臨済録岩波文庫p.76)で心性も意識も別でないと「心心不異」を解説しているのは流石であ

る。
                      雨 1983年(昭和58年)2月23日

 私はこの外に何度か意識→客観・主観の構造を書いてある。

 付註:信心銘にも「心苦し異ならずんばち法は一如なり」、伝心法要「心心異ならず故に名づけて祖と

なす」と在り。


 臨済は同臨済録に於いて(岩波文庫p.87)還是体究練磨と示衆に云っているが、是は重大な意味を持っ

ている。即ち実践とするばかりでなく、身体即肉体で究める→身体でおぼえることを強調しているのであ

って単に心で知ることでなく、身体で納得せよと云う意味と解すべきである。即ち次ぎで云っている「一

朝自省」に明らかである。
                      1983年(昭和58年)2月25日

 実存的存在に於ける触覚的意識による事も併せてこの言に包含されている。

                      1984年(昭和59年)10月22日

 臨済録に(p.99)示衆に於いて還って是れ無依の道人、動を用い不動を用うと云っている。即ち現象そ

のものをそのまま現象として徒なる主観に乗せずに用いる ― 意識を働かす、と断じている。

                      1983年(昭和58年)2月25日

 臨済録(p.102)示衆に於

 處々討覚尋、皆不見有生有死、唯有空名、幻花空花不労把捉、得失是非、一時放擲

も亦前記と同様現象そのもの以外の何物でもない事実をかっぱしたものである。

                      1983年(昭和58年)2月25日