なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(15)

        使徒言行録による説教(15)使徒言行録4:23-31
                  
・現在の私たちは、前回学びましたペトロやヨハネのように、「イエスの名によって話したり、教えたり」したからと言って、捕まえられて留置場に入れられたり、裁判を受けたりするということはありません。

・けれども、自らの信仰に基づいた行動が圧迫を受けるということは、私たちの中にも起こっています。ご存知のように、東京の日野市の市立小学校の音楽専科の教諭であったキリスト者の女性教師が自らの信仰によって、入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を内容とする校長からの職務命令に従わなかったということがありました。この彼女の行動に対して、東京都教育委員会から彼女は戒告処分を受けました。彼女は校長の職務命令は思想・良心の自由を定めた日本国憲法第19条に違反するとして、上記処分の取消しを求めましたが、2007年(平成19年)2月27日最高裁判所第三小法廷判決)は、本件職務命令が憲法19条に違反しないとして、彼女の請求を認めませんでした。本件は、一連の入学式・卒業式における国歌斉唱の際にピアノ伴奏を拒否した教諭に対する処分の可否について、初めて最高裁としての判断を示したものです。

・戦時下の教会では、「イエスの名によって話したり、教えたり」することが、特高の監視下に置かれていて、ホーリネスの牧師さんのように、捕まえられて獄中で亡くなった方もいました。キリスト教の殉教の歴史を振り返るまでもなく、「イエスの名によって話したり、教えたり」することによって、迫害を受けるということはめずらしことではありません。

・今日の使徒言行録の記事には、そのような場合に、信仰者の集まりである教会はどうするのだろうかということが描かれています。釈放されたペトロとヨハネは、仲間のところに帰ってきて、「祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」(23節)言います。二人はユダヤ人の指導者からどんな脅迫を受けたのかということを話したのだと思います。それを聞いた二人の仲間たちは、恐れて、どうしたらよいか相談したというのではありません。この使徒言行録の記事では、「これを聞いた人たちは心を一つにして、神に向かって声を挙げて言った。『主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてを造られた方です』」(24節)と。

エルサレムの原始教会の人たちが、最高法院の議員たちの脅しをペトロとヨハネから聞かされて、心を一つにして神に祈ったというのです。この時、エルサレムの原始教会の人たちには、自らの知恵と判断で最高法院の議員たちの脅しにどう対処するかについて話し合うという可能性もあったと思われます。けれども、彼ら彼女らはペトロとヨハネの話を聞いて、心を一つにして、間髪いれずに神に祈ることを選び取ったのです。このことは、私たちにとりましても極めて大切なことではないでしょうか。天地の造り主なる神は、同時に歴史を支配する神ですから、エルサレムの原始教会の人たちは、その神に祈ることによって、最高法院の議員たちの脅しに自分たちが揺らぐことがないように神の命の力を祈り求めたのでしょう。

ナチスの時代にバルトやボンフェッファーは、エルサレム原始教会の人たちと同じように、その都度その都度真剣に神に祈りながら自らの進むべき道を決断して行ったのではないかと思います。全体主義的な時代と社会の中で、私たちを権力の統制の下に一つにしようとする力が強力な時に、その力に抗って自分の信じる道を進んでいくには勇気がいるものです。その勇気は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と、私たちに語りかけてくださる方から与えられるもので、私たちの中に生まれながらにあるものではないからです。宗教改革マルティン・ルターは、教皇の使者が来て、「主張を変えなければどんなことが起こるかわからないと脅迫し、さらに、その結果すべての支持者を失うことになると警告した。『そうなったら、あなたはどこへ行きますか』と、使者はルターに詰問した。ルターは、『そうなったら、神のみ手の中へ行きましょう』と答えた」(バークレー使徒行伝』49―50頁)と言われます。

使徒言行録の今日の個所の信徒たちの祈りには、続けて、詩編2編の1節、2節がギリシャ旧約聖書七十人訳)から引用されます。「なぜ、異法人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう」。このメシア預言が、イエスの受難によって実現成就されたと語られ、イエスの受難が想い起されています。つまり、エルサレムの原始教会の信徒たちは、「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてを造られた方です」と神に向かって祈ると共に、イエスのことを想い起しているのです。そして、イエスは十字架にかけられることによって、「明らかに敗北の死を遂げましたが、実はこの敗北を通して、神は最終的にその御旨を貫徹されるのであり、人間の罪が噴出したあの出来事すらも、神の計画の中に取り入れられているという逆説的真理が、ここに告白されているのです」。

・彼ら信徒たちも、現実には敵対者に打ちのめされようとしているのですが、すでに神の勝利を確信し、ここでそれを告白しているのです。そしてこれに続いて、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思いきって大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(29,30節)と祈っているのです。高橋三郎さんはこのように述べています。「ここには『どうかこの敵する者を打ち倒して下さい』とか、『この迫害を免れさせて下さい』というような願いは一つも見えない。まっさきに出ている第一の祈願は、御言葉を『大胆に語らせて下さい』ということであった。…これによって、御言葉があらゆる人々に宣べ伝えられることこそ、彼らの最大の関心事であった。それと併せて、癒しの力が与えられることも願っているのは、現実に困窮の中にある人々を、いかにもして救いたいという熱意の表れと解せられる。つまり彼らは、その宣教活動が、この具体的な事実によって裏付けられることを、願っているのである」と。

・この使徒言行録の記事には、著者ルカの考えている教会の理想的なあり方が反映されているのかも知れませんが、最高法院の議員たちの脅しという現実にぶつかって、ペトロとヨハネと共にエルサレム原始教会の信徒たちも、全く動揺しないで、神に祈り、イエスを想い起し、あたかも何事もなかったかのように、その宣教活動を続けて行こうとしていることに、私たちは注意を向けたいと思います。イエスの福音を大胆に語り続けることと、イエスの業を継承すること、つまり、この世で最も弱く苦しむ人びとが癒されることを願い、時が良くても悪くても活動していくことが、イエスと共に神を信じて生きようとする者がめざすべき道であるということが、ここには明確に示されているのです。

・今日の個所の最後には、「祈りが終わると、一同の集まっていた場所は揺れ動き、皆、聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語り出した」と記されています。これもまた、使徒言行録の著者ルカの理想的な教会の在り方なのかも知れません。エルサレムの原始教会の指導者や信徒たちが、実際にそのようにあり得たのかどうかは分かりません。けれども、迫害という状況の中で、大胆に神の言葉としてのイエスの福音を語り、イエスの福音を生き、イエスを指し示し、イエスの証言者として生きた人々がいたので、イエスの福音が人から人へと広がっていったということは事実ではないでしょうか。

・私たち日本の教会は、戦時下の時に「大胆に語る」を止めて、天皇制国家によって行われたアジア侵略と戦争に加担してしまったという歴史をもっています。ある意味で自ら信じるイエスの福音を放棄したということです。このことのゆえに、私たち日本の教会は、その信仰への信頼を勝ち得ていないのではないかと思うのです。このことは、戦時下の人々を非難批判することではなく、自らへの自戒として、私はお話ししています。この日本の国がかつてのように、国家統制が強くなり、戦争への道を歩み出すようにならないことを願いますが、もしかつてと同じような道に国家が歩み出して、私たちがその動きを止めることができなかったということになったときには、戦時下の方々と同じように、自らの信仰が問われることになると思います。今このことを語っておくことは、その時に自分が逃げ出すことのないように、ある意味で自らを縛る言葉として語っているのです。

・保坂正康、澤地久枝姜尚中の三人の講演と質疑応答がまとめられている『未来は過去の中にある』という本の中で、保坂正康は、こんなことを語っています。 「『あの戦争』に突き進んだ病的な社会空間は、国が国民を四つの枠組みで囲いこんでいった挙げ句に形成された。「臣民教育」と「情報の一元化」と「弾圧律法」と「暴力」、この四つにじわじわと狭められ、家族全員が監視され迫害を受け、職を失い食っていけなくなれば、人はものを言わなくなり、抵抗しようとすれば亡命か自殺しかない ― ということ」。

教育基本法の改悪が既に行われ、自由主義史観による歴史教科書の採択が進んでいます。監視社会がどんどん進んでおり、国家秘密法や背番号制、そして共謀罪などの治安維持法が出来上がってしまえば、かつての国と同じになっていく危険は濃厚です。そういう状況の中で「大胆に語る」ということができるだろうか。私たちの課題でもあります。

・少なくとも、今日の使徒言行録の記事から教えられるのは、信仰者を圧迫する脅迫に対して、神に祈り、イエスを想い起すことによって、私たちは大胆に語ることができるということです。このことを失わないようにして、これからも歩んでいきたいと思います。