なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(23)

         使徒言行録による説教(23)使徒言行録6:8-15、
              
ヨハネ福音書8章31節に、イエスの語られた言葉として、「…真理はあなたがたを自由にする」という言葉があります。真理というのは、偽りの覆いが取り払われて、本当のものが現われるということです。そして、真理は、偽りの覆いによってどんなにくるまれても、その覆いを内側から破って、自らを現わすというのです。

・今はタケノコの季節です。私は名古屋時代に赤池というところにある教会に数年生活したことがあります。その教会の庭には、教会とお隣の家との境界線に竹が生えていて、毎年この時期になると、タケノコが取れます。大地に張り巡らされた竹の根から、新しい芽が出て、それが伸びて来て、地上に現われてくるのです。このタケノコが覆われた土の下から、その土を破って地上に顔を出してくる様子は、覆われている真理が、その覆いを内側から破って現われてくるのと、象徴的には、どこか似ているところがあるように思われます。

・もし偽りの覆いの側に私たちが立っているとしたら、真理がその覆いを破って姿を現すということは、私たちには恐怖以外の何物でもないでしょう。逆に偽りの覆いのゆえに、苦しんでいる者にとっては、覆いを取り去って姿を現す真理は自由を意味するでしょう。イエスは、ご自分の語る言葉の真理性が、そしてご自分の存在とその生きざまの真理性が、あなたがたを自由にすると、「御自分を信じたユダヤ人たちに言われた」(ヨハネ8:31)というのです。

・このイエスという真理に、イエスの十字架の時に、最初は躓いてしまった弟子たちは、復活したイエスとの出会いによって、そのイエスという真理に自らを託して生きて行くようになります。そして教会が誕生します。最初の教会のメンバーは、イエスの生前に弟子としてイエスに従っていた者たちをはじめ、その弟子たちの宣教によって、イエスという真理を受け入れた人たちも皆パレスチナ生まれのユダヤ人たちでした。

使徒言行録では「へブル語を話すユダヤ人」と言われている人たちです。彼ら彼女らの中には、生前のイエスとの何らかの関わりをもっていて、そのイエスの思い出を持っている人が多かったのではないでしょうか。そして、彼ら彼女らは、へブル語を話すユダヤ人として、同じパレスチナ出身のへブル語を話すユダヤ人であるユダヤ教徒が大切にしてきたエルサレム神殿での祭儀と、かく生きよと命じる神の定めである律法の、全ての人に普遍的な教えとは言えない、ユダヤ人としての民族的なものも、なかなか捨てることはできませんでした。つまり、彼ら彼女らは、確かにイエスという真理に自分を賭けて生き始めているのですが、神殿祭儀や律法というユダヤ教の枠組みも大切にしていて、イエスの真理性をへブル語を話すユダヤ人を超えて、パウロのように広く非ユダヤ人にも受け入れられるようには、伝えることがなかなか難しかったのです。

・その点、ギリシャ語を話すユダヤ人であるステファノの場合は、イエスの直弟子で、へブル語を話すユダヤ人であるペトロやヨハネとは違って、そもそも話す言葉がギリシャ語ですから、当時のギリシャ・ローマ世界に生きる非ユダヤ人にも通じることができました。そういう意味では、ギリシャ語を話すユダヤ人は、ユダヤと非ユダヤであるギリシャ・ローマ世界を繋ぐ言葉というスキルを持っていました。その意味で、エルサレムという、当時のユダヤの国では世界都市に等しい所に最初の教会が誕生したということは、不思議な導きとしか言えません。最初期のエルサレム原始教会で、ヘブル語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人との間に亀裂が起こったことも、イエスの真理性が文化の異なる背景を持つ人々の中にある差別と抑圧の覆いが取り払われて行くプロセスということができるかもしれません。

・今日の使徒言行録の個所に描かれていますステファノという人は、ギリシャ語を話すユダヤ人です。また使徒言行録では、エルサレム教会においてギリシャ語を話すユダヤ人の寡婦(やもめ)が、日々の給食で軽んじられていることがきっかけとなって、そういうことがないようにと、その世話をする人として、使徒たちによって選ばれた7人の一人です。

・しかし、ステファノは、ここでは、使徒たちと同じように、「恵みと力に満ちて、民の中で大いなる奇跡と徴をなして」いたと言われています(6:1)。つまり使徒たちと同じように宣教の働きに従事していたということなのでしょう。すると、ステファノと同じギリシャ語を話すユダヤ人の中から、ステファノに議論を吹き掛ける者があったというのです。両者は、エルサレムに居住している外国生活の帰還者という同じ立場でした。そのステファノの突出にねたみを持ったのか、ステファノの教えに反発したのかは分かりません。ステファノに真っ向から議論をしかけてきたというのです。

・外国で生活していて、聖地エルサレムに移住してきたユダヤ人の中には、パレスチナユダヤ人以上にユダヤ人の伝統を大切にする人たちがいたと思われます。おそらくステファノに議論を仕掛けたギリシャ語を話すユダヤ人たちは、そのような人たちだったのかも知れません。しかし、ステファノが知恵と“霊”とによって語るので、歯が立ちませんでした。議論では勝てないと思った彼らは、きたない手に出ます。人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせます。そして、民や長老、律法学者を扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った、というのです。更に、「偽証人を立てて」、「この男は、この聖なる場所を律法をけなして、一向にやめさせようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレのイエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』と。

・6章の7節では、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」と言われていますので、この段階ではエルサレムの原始教会の宣教が、神殿や律法というユダヤ教の伝統を否定する教えを語っていたとは考えられません。むしろユダヤ教の伝統の枠の中で活動する教会に多くの人が集まって来たというように読めます。けれども、ステファノに対しては、神殿を破壊し、モーセ律法も否定しているかのように言われています。これは、ステファノに対する悪意を持った言いがかりなのかもしれません。ただ、使徒言行録の著者ルカは、ステファノの信仰と彼の宣教の働きの中には、ユダヤ人のユダヤ教や慣習を絶対化しないものがあったと考えているのではないかと思います。かつて天皇信仰によって、日本人以外は人間ではないかの如く思っていた偏狭な日本人の民族主義者と同じように、神殿と律法を絶対化して、ユダヤ人以外は人間でないかの如くに考えていた、選民意識に凝り固まっていたユダヤ人とは違ったのでしょう。ギリシャ語を話すユダヤ人は勿論、ギリシャ・ローマ世界の人々にも、イエスの真理は命となるということを、匂わすものがステファノにはあったのだと思います。

・最高法院に引き出されたステファノは、「その顔はさながら天使の顔のように見えた」(6:15)と、ルカは記しています。先ほど司会者に読んでいただいた出エジプト記の個所には、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を導いて、エジプトを脱出したモーセは、シナイ山で民を麓に残して、一人山に登り、そこでイスラエルの神ヤーウエと会見します。そして神との契約のしるしでもある二枚の板に記された掟をもって、民のいる山の麓に降ってきます。その時、モーセの顔は光輝いていたというのです。そのところを読んでみます。「モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセの顔を見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた」(34:29,30)。顔が光り輝いていたというのは、神の栄光に触れた人の命の輝きを表わしていると思われます。つまり、神に造られた被造者としての人間本来の輝きがモーセの顔に現われていたということなのでしょう。インマヌエル、「神われらと共にいましたもう」という信仰による輝きと言えるかも知れません。

・先日ある所で、ナザレのイエスについて数人の人と話をしていました。その中の一人の方が、このようなことを言いました。イエスの母マリアがローマ兵にレイプされてイエスを生んだとしたら、イエスは幼少時代から大変な苦しみ、悲しみを味わい尽くして大人になったのではないか。イエスの他者への優しさとあの十字架を耐え得たのは、悲惨のどん底を味わったイエスが、人間的な可能性を全く断たれても、インマヌエル、神我らと共にという信仰を体験していたからではないか、というのです。

・私は、そのことを聞きながら、十字架のイエスは断末魔の苦しみを顔ににじませながら死んでいったのではなく、モーセやステファノと同じように輝いた顔をして死んでいったのかも知れないと、ふと思わされました。実際にどうだったのかは分かりません。ただ、神と直接出会った人の顔には、不思議な輝きがあるという、この聖書の記述が意味するものに、こだわりたいと思うのです。

・もしそうであれば、人生の営みを、終末、終わりから生きることができるのではないでしょうか。聖書においては、終わりは、この世で生きた全ての人の営みが裁かれ、贖われた神の子どもとして、神とイエスと共に永遠の祝福にすべての者が入れられるということです。その贖われて神の国における祝福に与る者にふさわしく、今この時代、この社会の中で、私たちは生きているのです。私たちの顔にも、ステファノの顔の輝きが与えられているのではないでしょうか。

・この混沌として、悲惨が繰り返されるこの世の現実にあって、輝きを与えられた顔を失わないで歩んで行きたいと願います。