なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(30)

        使徒言行録による説教(30)使徒言行録8:4-13
              
・在日の方との出会いの機会がある度に、戦時下の日本の国による強制連行によって、無理やりに自分の国の故郷を棄てさせられて、他国の日本に連れて来られた方々のことを想い起さざるを得ません。今実際に私が出会う在日の方は、二世か三世の方がほとんどですが、一世の方々の、日本に連れてこられてからの生活はどうだったのだろうか、と考えさせられるのです。全く未知の国で強制労働を体一つで生き抜くということを想像しただけでも、その厳しさに戦慄を覚えます。

・60年代後半に台湾から日本に来た医者の一家族を知っていますが、その母親から、子供が3人いてみな男の子でしたが、その一人一人にそれぞれ高価な宝石を遺しているという話を伺ったことがあります。宝石なら、どこの国に行っても、価値が変わらないということのようでした。

・戦時下に日本の国によって強制的に連れて来られた在日の方たちは、そのような台湾の一家と違って、無一物で日本に強制的に来させられて、軍事施設や空港・道路の建設に、またエネルギー源であった炭鉱などで強制労働をさせられたのです。健康を害して亡くなった方も多かったでしょう。戦後は何とか生き延びるために、日本人が嫌がる条件の悪い仕事にも食らいついてやってきた在日の方も多いと思われます。

・住み慣れた同胞の住む場所を、強制的に追われて、全く生活基盤を持たない場所で、新たに生活を始めるということの厳しさを思わざるを得ません。実は今日の使徒言行録に出て来ます「散って行った人々」も、ある意味でそれまで住んでいたエルサレムを、強制的に離れざるを得なかった人々です。使徒言行録では、ステファノの殉教があったその日に、エルサレム教会に大迫害が起こって(8:1)、ギリシャ語を話すユダヤ人は、エルサレムから逃げ出さなければなりませんでした。エルサレムに居つづけたら、ステファノと同じように石打ちのリンチにあって、殺されてしまうかも知れなかったからです。

・ステファノの殉教に至る過程で、ギリシャ語を話すユダヤ人たちは、或る程度迫害の予測をしていたかも知れませんが、実際にエルサレムを出るときには、他の未知の場所で生活することができるほど、十分な準備はできていなかったに違いありません。そのようなギリシャ語を話すユダヤ人たちは、現代ではある種の難民と言えるでしょうが、古代社会では、部族と部族、民族と民族による戦いによる難民の頻発ということもあり、そのような人々を受け入れる側も、現代よりも優しかったということがあったのかもしれません。エルサレムから「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(8:4)というのです。

・随分余裕があるというか、あたかもエルサレムでの大迫害によるエルサレム離散という出来事が、この人々にとっては、福音宣教のチャンスであったかのように描かれているのです。これは、地の果てまで福音が宣教されて、教会が全世界に広がって行くという、使徒言行録を書いた著者ルカのイメージと重なりますが、それだけではなく、実際に散らされた所で、何故自分たちはエルサレムにいられなくなったのかということを、その地の人々に語るときに、彼ら・彼女らが信じていたイエス・キリストについて、その福音について語らざるを得なかったのではないでしょうか。そのようにして、「散らされた人々は、福音を告げ知らせながら、巡り歩いた」ということなのでしょう。

エルサレムから散らされたギリシャ語を話すユダヤ人の信徒たちは、難民として留まった場所で、そこに生活している未知で異質な人々と共に大切にしたいと願っている「福音」を携えていました。そのことは、何と大きなことであり、人と人を繋ぐ福音の命への信頼が大きな力となって、難民状態にあっても、それにめげずにいられたのではないでしょうか。

使徒言行録では、この「散らされた人々」がその後どうなったのかについての詳しい報告はありません。むしろこの「散らされた人々」であるギリシャ語を話すユダヤ人たちの、ステファノと共に指導者の一人でありましたフィリポが、「散らされた人々」が巡り歩いたと思われるサマリア地方にやってきて、そこで伝道して成果を上げて、サマリア地方にも洗礼を受けて信徒になる人が誕生したことを告げる物語にすぐ移っています。

・フィリポは、聖書の記述によりますと、明らかにペテロやヨハネ、或いは後のパウロなどの使徒たちと同じような働きをしていた人物だったと思われます。サマリアでのフィリポの福音宣教の働きはめざましいものでありました。フィリポは、イエスと同じように悪霊に憑かれた人から悪霊を追放し、病者や障がい者を癒しました。その町の人たちは大変喜んだというのです。

サマリアには魔術師シモンという人物がいて、フィリポがやってきて、不思議なしるしを行うまでは、彼の魔術にサマリアの人々は驚いて、シモンに従っていました。しかし、フィリポがやってきて、「神の国イエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行なわれるのを見て驚いていた」(12,13節)というのです。

・フィリポは、このことがあった後、神の示しを与えられて、サマリアを去って別の場所に行きます。8章26節以下に、「さて、主の天使はフィリポに『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った」とある通りです。そこで、エチオピアの宦官と出会い、エチオピアの宦官はフィリポから洗礼を受けます。その後フィリポは、「すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイザリアまで行った」(8:40)と記されています。

・フィリポが去った後のサマリアの町には、イエスを信じる信徒の群れ(教会)が誕生しました。おそらくエルサレムから逃れてきたギリシャ語を話すユダヤ人の信徒たちもその教会のメンバーとなったのではないかと思われます。そのようにしてサマリアの町に信徒の群れである教会が誕生して行ったと思われます。このサマリアの教会は、フィリポの宣教活動によって生まれたように使徒言行録では描かれていますが、フィリポの働きだけでなく、エルサレムから散らされてきたギリシャ語を話すユダヤ人たちが、サマリアの町に居を構え、サマリアの町の人々との関わりを通して徐々に形成されていったものと思われます。フィリポが告げ知らせた「神の国イエス・キリストの名についての福音」は、サマリアの町に神と人、人と人とを繋ぐ新しい交わりを生み出していったのでしょう。

・そのような信徒の群れとしての教会の誕生は、サマリアの町に新しい光と命をもたらすことになったのではないでしょうか。「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目されていた魔術師シモンのような人が崇められる、偉大なもの、大きな力への憧れで心が占められていたサマリアの町の人々の中に、イエスの福音が告げ知らされることによって、病める者をはじめ、むしろ周辺に追いやられている門外の人に光が当てられていったと思われます。

・元々サマリア人ユダヤ人からは差別されていた人々です。純血を誇るユダヤからしますと、サマリア人は混血だったからです。古代イスラエルにおいては、同じ十二部族宗教連合の一員でありながら、歴史の変遷の中でそのような差別が生まれていたのです。
差別を受けている者の中には、その痛みがあります。ギリシャ語を話すユダヤ人が、エルサレムにおいて、またそのエルサレムの教会において、パレスチナ出身のユダヤ人のユダヤ教徒エルサレム教会の信徒たちから見下げられていたこと。そして彼ら・彼女らは迫害を受けて、サマリアに逃げて来なければならなかったこと。そのようなギリシャ語を話すユダヤ人の信徒の痛みに、同じ痛みを経験していたサマリア人は共感するところがあったのかも知れません。

使徒言行録においては、エルサレム教会から世界に広がって行く教会の進展は、ペテロやヨハネ、ステファノやフィリポ、後のパウロという使徒たちの主導によるものとして描かれています。けれども、実際には、今日の迫害によって散らされたギリシャ語を話すユダヤ人信徒のように、名もない信徒たちがそれまでは福音が届いていなかった所にやってきて、イエスの福音によって誕生した信徒の群れである教会の存在を、その地の人々に語り、イエスの福音によって集まる人々の群れが出来て、そこに巡回伝道者のような人がやってきて、教会としての形を整えて行くというプロセスで、いろいろな地域にイエスを信じる信徒の集まりが形成されて行ったのではないでしょうか。

・このような最初期のエルサレムガリラヤからはじまったイエスを信じる者たちの集まりが、ギリシャ・ローマ世界である地中海沿岸の世界に広がっていったのは、近代のヨーロッパのキリスト教が、資本の進出とタイアップして、未開の地に宣教師を送って行なわれた世界宣教による各地での教会の誕生とは、根本的に違っていたのではないかと思います。

・少なくとも、今日の使徒言行録に記されているサマリアの町での出来事から想像される教会の誕生は違います。小山晃佑は、『裂かれた神の姿』でこのように述べています。「福音の普遍性は具体性です。『エキュメニカルであること』とは、仕えるキリストというイメージにおいて普遍性を発揮します。『エキュメニカルであること』は、上から支配しようと願うのではなく、仕えることです(マルコ10:45、イザヤ53:4)。『世界規模の宣教的広がり』は自己否定と、他者に仕えることをとおして成就されなければなりません。1989年にサン・アントニオで開かれた世界宣教、伝道協議会の主題は『汝のみ心がなるように―キリストの道にかなう宣教』でした。この道は帝国主義的ではありません。なぜなら、教会の真の普遍性は十字架に架けられた普遍性だからです」(p.20-p.21)「人類を包むのは裂かれたキリスト」(p。21)であるというのです。「この『弱い』キリストは教会の一致と人類の一致を具体化しているのです」(同)と。

・私はサマリアの町に信徒の群れである教会が誕生したことの中には、この「弱いキリスト」によって人と人とが繋がっていったということがあったと思うのです。そのことを私たちも大切にして、この船越教会の交わりに参与していきたいと思います。