なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(222)復刻版

 昨日は、国会前の辺野古新基地反対座り込みに行く予定でしたが、雨の予報で、連絡が入り中止

ということになりました。私は午後1時半頃まで鶴巻にいて、その後船越に移動しました。その日

の夜には船越教会の聖書研究会があり、上村静『旧約聖書新約聖書』の終章「神学とは何か」の

部分を5人で読みました。

 さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信(222)」復刻版を掲載します。 



      黙想と祈りの夕べ通信(222[-13]2003.12.28発行)復刻版

 今日はクリスマスの礼拝と祝会があり、恵まれた一日でした。祝会では手品があり、いろいろな

出し物があり、楽しく沢山笑うことができました。このような平穏で楽しい私たちの現実がある一

方で、アフガニスタンイラクパレスチナをはじめ世界には多くの戦争状態にある地域があり、

そこに生活する人々の困難と悲惨を思うと、やりきれない気持にさせられます。日本を含めたヨー

ロッパやアメリカのような高度資本主義社会で生活している私たちと、今さまざまな紛争の起こっ

ている地域にあって生活している人たちとの格差の大きさを思わざるを得ません。そういう中で私

たちは、心情的には世界で苦しむ人々に同情しますが、同時に現在の世界状況に対して自分には何

も出来ないという自分自身の無力感にさいなまれます。けれども、そういう個々人の中の無力感

は、現状を造り出している権力(?)にとっては好ましいものに違いありません。無力感に支配さ

れて何もできない、何もしないとうことは、直接的・間接的に現状を是認・肯定することになるか

らです。世界大の状況からすると、私たちの毎日の生活の場は極小かもしれませんが、その極小に

違いない私たちの日常の世界も、複雑な経路を経て世界大の状況に結ばれていると言えるでしょ

う。イエスという方の生涯と十字架と復活の出来事には、私たちの日常性の中から未来を展望する

構えや行動が与えられるインパクトがあるように思います。「信じつつ、祈りつつ」(ボンフェッ

ファー)、日々の務めと出会う他者との関わりを、イエスを仰ぎ見つつ歩んでいきたいと思いま

す。

 上記のような私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。偶然と言うか、今日はクリスマ

ス祝会で今年一年の間に当教会に加えられた6人の方へのインタビューがあり、その中の4人の方か

ら葬儀や死に関わることがきっかけとなって洗礼や転入によって当教会に加えられるようになった

ということだったが、大変興味深く思った。現在教区の性差別問題特別委員会で結婚式式文や教会

における結婚式について考えている。教会の結婚式において、神の前での誓いを権威をもって遂行

すればするほど、それが二人に重荷になるということがあるのではないか。イタリアでは離婚がで

きないので、教会で結婚式を若者がしないということが起きていると言う。神の前での誓いが祝福

でなく、単なる強制力になったら問題である。クリスマス祝会で、「お葬式が・・・」「お葬式

が・・・」という発言が続いたことに興味を持った。死について考えることは生について考えるこ

とに通ずるのではないかと思うので、死については一人一人が真剣に考える。神の示される道を求

めて、生きそして死んでいくことが幸せなことだと思う。結婚式の場合には、どのように考えてい

くべきなのか、まだ見通しがないが、今日は葬儀や結婚式のことを通して、人間の生死の問題を静

かに考えることができた。



      「主は人間の姿になられた」(『ルターの日々のみことば』より)

 キリストは、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。

                                  ピリピ2:7


 人間は、人間をつくられ、またそのいのちと幸いの泉である至高者のうち以外には、どこにも満

足を見いださず、また、見いだすこともできません。それゆえ、神は、人間がご自分のみにすが

り、ご自分のみを信じるようにと願っておられます。すべてのつくられたものは神を信ずべきであ

って、そのほまれは、神のみに属します。それゆえ、神がわたしたちのところにこられ、人間の姿

になられ、人の身代りにご自分をささげられ、人間をご自分へひきよせられ、み名によって彼を招

かれました。それによって、人間が神を信じるためです。しかもそれは、神がわたしたちのところ

にこられ、人間になられる必要があったからでなく、むしろ、わたしたちにとって必要であり、わ

たしたちの益となるからでした。

 神の本性はあまりにもの高く、わたしたちには不可解です。ですから、わたしたちの益となるた

めに、神はわたしたちにもっともよく知られた性質、すなわち、人性をおとりになったのです。そ

のところで、神はわたしたちを待っておられ、そのところでのみ神にお会いすることができます。

ただゆきさえすれば、だれも閉め出されることはないめぐみのみ座がそこにあります。


                                 1526年の説教から