なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(304)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(304)復刻版を掲載します。2005年7月のものです。

 今日は、これから農伝の説教演習にでかけ、その後に神奈川教区の常置委員会に要請陪席者としていき

ます。


       黙想と祈りの夕べ通信(304[-43]2005・7.24発行)復刻版


 先日教団の常議員会があり、取り扱われた議事の多くは諸決算報告など法定議事というのでしょうか、

宗教法人としての日本基督教団が決済しなければならない議事がほとんどで、合同のとらえなおしやセク

シュアル・マイノリティーに関する教団総会の付託議案は全く取り扱われず、次回へ継続となりました。

その中でも熊本白川教会牧師によるセクハラ人権侵害に関わることが、高裁で判決が確定し、それに対し

て教団教師委員会の戒規適用(戒告)と議長談話(教団新報4582号参照)をめぐり議論がありました。被

害者の立場に立った発言は常議員会全体としては受け止められず、しかも被害者を支援している陪席者の

発言も議長は全く許しませんでした。常議員会は教師委員会の報告承認を多数で押し切りました。その後

の抗議で議長はきちっと被害者に謝罪を表明するということになりましたが、この問題で一常議員から出

されていた被害者への謝罪とセクハラの問題を教団として取り組むという議案の審議の結果、賛成11票で

否決されました。これらの一連の議論に参加していて感じたのは、どこから問題を見るかというその人の

視座の重要さということでした。合同のとらえなおしの問題にも通低していると思いますが、執行部をは

じめ多くの常議員には痛みを持って苦しんでいる人のことがどれだけ考えられているのか、と思わざるを

得ません。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から以下の発言がありました。今の発言と重なるが、熊本白川教会

牧師のセクハラの問題で神奈川教区総会の決議でもきちっと取り上げて欲しいという要望を教団議長宛て

に出していたが、残念である。痛みを感じていたら、当然考えてくれると思っていたが、それが当然出な

かったことに唖然としている。イエスの福音は最も弱い人を大切にしているように思う。教区の性差別特

別委員会で、教団の教憲教規をみんなで読んでみたが、一体規則とは何なのかと考えさせられた。イエス

は律法からの自由を与え、人々に生きる希望を与えた。そういうイエスの自由のおとずれによって教会が

生まれながら、教憲教規を盾にしている教団とは何だろうか。今回のことで被害者に三次被害を受けさせ

てしまったと思う。この問題を神奈川教区の婦人委員会でアピールしても、他人事で怒りにならないのを

感じる。被害に合った女性の痛みを同じ女性が自分の身に置き換えて考えられないとすれば、彼女を痛ま

せているのは私たち自身でもあることを思う。自分としては性差別問題特別委員会の仲間とこれからも考

えながら行きたいし、一人でできることは一人でもしていきたい。教団議長の談話は読み方にもよるが、

余りにもひどい。沖縄のこともどんどん遠のいていくようでつらい。セクハラで傷つく次の人を出さない

ために、被害を受けた方の傷が癒されるように祈りも求めつつ、自分の出来ることをしたい。教団教師委

員会は各教区に相談の窓口を作るようにしたいと言っているが、窓口ができればよいというわけではない

が、そのことも考えて行きたいと委員会で話し合っている。

 ある方は、日曜学校で牧師が、忙しい、騒がしい中で、一人一人の心に語りかける静かな神の声を聞こ

うと呼びかけられたのに、自分はなかなか黙想ができない、神の声を聞こうとしていないと思った。それ

を聞こうとして黙想の時が終わってしまった。人の痛みが自分の痛みとして感じられるかどうかが自分の

課題である。今の二人の話を聞きながら、人を愛することによって、人の痛みが感じることができるので

はないか。そういうことを感じた。

 また別の一人の方の発言がありました。自分は就職してから10年ぐらいは職場でクリスチャンであると

は言わなかった。その後クリスチャンであることをはっきりと言うようになった。今日読んだ詩編14編に

「・・・神などいない。・・・・善を行う者はいない。ひとりもいない」とある。私の生き方を通して神がいる

と思ってくれる人がいないということは、私の働きができていないからかも知れない。周りの人に「神な

どいない」と少しでも言われないようにしたい。

 一人の方から今日読んだ「タラントの譬え」(マタイ25:14-30)について、どう解釈したらよいのか質

問があり、次回までの宿題とした。

 また別の方から発言がありました。自分の息子が中学一年生になって、部活を選ぶ時、勧誘された部活

は日曜日にも出なければならない部活だったが、息子は自分は教会が好きだからと言って、その部活を選

ばなかった。教会が好きだという息子の言葉は自分への問いかけとなった。自分も教会に所属する一人と

して、イエスの歩まれた道を私たちが歩んでいるのかが問われていると思わされた。