黙想と祈りの夕べ通信(306)復刻版を掲載します。2005年8月のものです。305号は、私が
休暇か何かで、黙想と祈りの夕べは欠席して、まとめは当時の伝道師におねがいしましたので、この私の
ブログには割愛します。
昨日は、神奈川教区の常置委員会を終えて、いつものようにみなと会食して鶴巻に帰ったのは、午前0
時少し前でした。
黙想と祈りの夕べ通信(306[-45]2005・8.7発行)復刻版
毎日暑い日が続いています。8月5日(金)~6日(土)には寿青年ゼミが行われました。何れこの青年ゼミ
で感じたことも報告したいと思います。しかし、今回は大変個人的な読書感想というになりますが、たま
たま数日前の朝日新聞の一面下にある本の宣伝の中に、連合赤軍の重信房子が獄中でつくった短歌が『ジ
ャスミンを銃口に』という題の歌集として出版されたことを知り、さっそく手に入れて読んでみました。
短歌の良し悪しは私には分かりませんが、ただ重信房子の短歌に表れています彼女の心の動きは大変素直
に感じられますし、一人の人間として共感するところも多くあります。
重信房子と言っても、若い方には誰だか分からないかもしれませんが、この歌集の中にある解説から引
用してみましょう。「1971年3月1日、重信房子は単身、アラブの小国レバノンのベイルート空港に降り立
った。一足先に日本を発った奥平剛士とともに、パレスチナ解放闘争に連帯し、パレスチナの地に、世界
と日本を変革する礎を築こうとした。それは支配と抑圧のない社会を作るための遠大な夢と希望であっ
た。重信、当時25歳」。そして彼女は1971年から約四半世紀アラブで日本赤軍のリーダーとしてパレスチ
ナ人の仲間と共に闘ったのです。「1997年、重信は密かにベイルートを脱出し、日本に潜伏した。ソ連崩
壊後、中東政治にもアメリカの影響力が及び、レバノンも安住の地ではなくなったからだ。彼女は、『国
際テロ組織』日本赤軍リーダーとして国際指名手配されていた。2000年11月8日、彼女は大阪で逮捕され
た」のです。
70年代を知っている人はご存知のように、連合赤軍のリンチ殺人や浅間山荘事件などで当事者の家族が
世間から責められ、親が謝罪したり中には自殺した人もいました。けれども、重信の歌集のあとがきを書
いた弁護士大谷恭子によれば、重信に送った姉の手紙には以下のように記されているといいます。
「・・・お父さんは、あなたを理解し、守ろうとする姿勢だけは一生変わりませんでした。マスコミにたた
かれても、脅しや嫌がらせの電話があっても、「申し訳ない」とは決して言いませんでした。『二十歳を
過ぎた娘が自分の考えで行動していることを親がいちいち謝らんといかんのでしょうか。それは娘に対し
ても失礼です』。『死んで詫びろ』といってきた電話に、お父さんが静かに答えていた言葉です。知って
いましたか? あさま山荘以後、家族ことに親にたいする風当たり、責任を問う声が渦巻いていた頃のこ
とを~中略~世間の非難が強ければ強いだけお父さんは毅然としていて、今となれば、あなたを案じ守る
ために、自分に出来ることはこの方法しかないと思っていたのだと思います。もしあの時、フラッシュの
中で、畳に手をついて詫びるお父さんの姿を見なければならないとしたら、私たち家族の気持ちはきっと
もとにもどれないくらい傷ついたでしょうし、あなたに向ける気持ちはもっと複雑なものになっていたで
しょう」(2002年6月20日 姉の手紙より)。
自分がもしそうだったら、出来るかどうか分かりませんが、私はこの重信の父親の毅然とした態度には
学びたいと思っています。オームの地下鉄サリン事件が起こったときに、吉本隆明が自分の子供が本気で
オームの信者になったら、止めはしない、だめだったら、いつでも帰ってこいよ、と言うしかないという
趣旨のことを言っていたことがあります。そのときも、そうなのだろうなあーと思いました。奥平剛士の
母も、遺書に「多くの非難の中で過ごして参りましたが、やがて歴史が解決してくれます日もまいりまし
ょう」と書き遺しているといいます。親と子の関係について、自分なりに前々から考えてきたことでもあ
ります。