なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(307)

 黙想と祈りの夕べ通信(307)復刻版を掲載します。2005年8月のものです。

 この黙想と祈りの夕べ通信復刻版の内容が、時々今私が関っていることや行っていることと関係がある

時があります。今日の下記の記事は、寿の青年ゼミのことですが、実は明日12月6日から7日にかけ

て、寿わーく(青年ゼミ)があります。私は明日の朝の炊き出し準備から午後3時まで参加するつもりで

す。明日夜は日比谷公園野外音楽堂で行われる「特定秘密保護法案」反対集会に参加しようと思っていま

す。与党自民党は今日参議院強行採決しようとしていると言われますが、何としてもこの法案を成立さ

せようとしている自民党は、何故そんなに急ぐのでしょうか。


          黙想と祈りの夕べ通信(307-46]2005・8.14発行)復刻版


 10日の黙想と祈りの夕べは夏休みで休みしました。そこで8月5日(金)~6日(土)にかけて行われました

寿青年ゼミでの経験を記してみたいと思います。今回の青年ゼミ(現在は青年ゼミは「寿わーく」と呼ん

でいます)は2005年度の第一回で、例年は大学生が夏休みに入る7月末に行われていますが、今年は夏休

みに入ってからの時期になりました。帰省する学生も多いので、学生の参加がどうか心配でしたが、スタ

ッフの関係もあって、ICUの学生の参加が多く、お断りするほどだったということでした。私は寿活動委

員会の委員長ということで、青年ゼミの時にはこのところ必ず最初の挨拶をしています。青年ゼミの参加

者は大学生および高校生がほとんどですので、学生時代の体験として寿に何回か足を運んで社会人にな

り、社会人になってからは寿との関わりは切れてしまうという人が大半です。中には社会人になってから

も寿との関わりを継続している人もいますが、そういう人はごく少数です。ですから、私は青年ゼミの挨

拶では、必ず青年ゼミでの体験を社会人になってからも大切にして、それぞれがこの日本社会で生きてい

くということがどういうことなのかを考えていく契機にしてほしいといことを話すようにしています。こ

れは沖縄のことを含めて差別の問題にも通低していますが、日雇い労働者や野宿労働者の問題は日雇い労

働者や野宿労働者を生み出している社会の問題ですので、その社会に生きている私たち自身の問題である

という視座がはっきりしていませんと、どうしても他人事になってしまうからです。けれども、寿を社会

の問題という面からその社会に生きる自分の問題として考えるだけではなく、自分自身を含めて人間の問

題として考えていかなければならないのではないかと、今回特に強く感じさせられました。青年ゼミの最

後にいつものように参加者の一人一人に感想を述べてもらいました。その中で寿に40年近く生活している

Sさんが、みんなの感想を聞いて、みんな何もわかっていない、ということをおっしゃっていました。私

はSさんのその言葉の意味は、寿で生活している一人一人が、人間的な資質にしても個人としての歴史に

おいてもみんな個性的で、個々人の深みをもって生きているということを言おうとしていたように思いま

した。そのような寿に生きる人たちのことをよく知っているSさんからすると、青年たちの言葉も私の言

葉も、多分上滑りにしか聞こえなかったのはないでしょうか。

 初めて寿の街や人々に触れた青年の中には、市民社会の中でさまざまな規範によって意識的にも無意識

的にも縛られている己を揺さぶられるところがあるようです。自由さとかある種の解放感を寿から感じる

ようです。人は鏡によってはじめて自分の姿を見ることができるものですが、寿という鏡によって己の姿

を見せられると、今まで当たり前であったと思っていたことが、必ずしも当たり前でないことに気づかさ

れるようです。たとえば寿の街の道路では、自動車の方が道路を歩いている人を気遣ってゆっくり走ると

いうことを、ある種の感動をもって語っていた青年がいました。市民社会の中で小市民的に生活してきた

人の意識は、自分を社会に合わせて人間関係を築いて生きてきたという面が大きいのではないでしょう

か。家庭でも学校でも会社でも地域社会でも。役割としての自分を生きているといったらよいのでしょう

か。ところが、寿では個人個人バラバラでそれぞれが勝手に生きているという面を強く感じるのかも知れ

ません。それだけ裸の人間との出会いが寿には多いのかも知れません。