なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(320)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(320)復刻版を掲載します。2005年11月のものです。

 私の裁判支援会から、11月4日の報告・討論集会の内容をまとめた通信第9号と「教団の諸教

会・伝道所のみなさんへ」という別冊第2号を、支援者と教団の全教会・伝道所へ送ったことは既

にこのブログでも報告しています。この二つの文書は、「北村慈郎牧師を支援する会」のホームペ

ージにもアップされていますので、特に教団の多くの信徒の方々に読んでいただければと願ってい

ます。もしお知り合いの方がいましたら、ホームページ(http://k-saiban.com/)をお知らせいた

だければ幸いです。


      黙想と祈りの夕べ通信(320[-7]2005・11.13発行)復刻版

 3日から4日にかけて寿青年ゼミ(現在は「寿わーく」と呼んでいます)が行われました。私も

寿地区活動委員会の一員として出席し、青年ゼミに来た大学生との交流の時を持ちました。青年た

ちの中にはこの青年ゼミに始めて参加して、はじめて寿という街に来たという人もいます。その後

続けてくる人もいますが、殆どの青年は大学卒業と共に寿には見えなくなります。青年ゼミのとき

には私は寿地区活動委員会を代表して青年たちに挨拶します。そのとき必ず寿での出会いや体験を

社会人になってからもずっと考え続けてくださいと言うことにしている。今回もそのことを青年た

ちに話しました。日本の社会の中に寿のような街があるということを、青年たちは寿に来て触れて

出会ってはじめて知るようです。普段の大学での生活や自分の生活空間の中では寿は全く顔を出さ

ない場所でしょう。もし青年たちが寿に来なければ、自分たちが生活し、生業を得ているこの日本

の社会が寿を創り出しているということにも気づかずに過ごしていくのではないでしょうか。日雇

い労働者や野宿労働者を必然的に創り出す社会の仕組みに目を向けるのではなく、個々人の責任に

帰して、社会の負け組みの一員として場合によっては彼ら・彼女らに露骨な差別感を持つようにな

るかも知れません。私自身の体験からすれば、若いときに寿と同じような問題を背負わされている

人たちと関わったことが、その後の自分の生き様に大きな影響を与えています。ずっと考えてきま

したし、今も考え続けながらいます。青年たちが寿での体験を通してその体験を彼ら・彼女らのこ

れからの人生の中で発酵させてくれることを願わざるを得ません。

(寿地区センターのホームページができています。ご覧いただければ幸いです。http://kotobukic

hikucenter.web.fc2.com/shou_de_qusenta/homu.html )

 上記の私の発言に続いて、次のような発言がありました。今日朗読した聖書箇所マタイ25章3

7節以下「主よ、いつわたしは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどか渇いておられ

るのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。…わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にした

のは、わたしにしてくれたことなのである」のこの人の生き様について考えさせられる。小さな者

の視点を大切にとか、小さな者に寄り添ってという自意識によると、この聖書の人の言葉からは遠

ざかっていく。むしろ自然に出会った人にしたことが、こういう言葉になっているのだから、すご

いと思う。自分の中には「ねばならない」という面が強い。イエスさまに倣って祈りながら自然に

生きていきたい。毎週できるだけ月曜日には朝から国会前の座り込みに行くようにしている。その

座り込みにバイクに乗ってくる女性がこの月曜日に来る途中、最高裁の前で中国人の女性が一人だ

けで座り込んでいるのを見かけた。彼女は一人では心配なのでと言って、いつも座り込みに着てい

るYさんと二人で様子を見に行った。私はそれ程駆られる思いにならなかったが、二人は以前にも

同じ経験をしているので、命の心配をしてすぐに水のペットボトルを買って駆けつけた。二人の話

では中国人の女性は20年日本で生活している人だった。本人は中国では医師として働いていた

が、日本では医師としては働けないので、鍼灸をしているという。日本人にだまされて、この一年

以上収入がなく、日本人への怒りをもって座り込んでいるという。一人だと警察に引っ張られるの

で、私たちのところに来たらと言って、帰ってきたという。この二人は自然に中国人の女性のとこ

ろに駆けつけた。彼女の痛みを感じて見過ごせなかったのだ。この二人のことを思いながら、マタ

イ25章の聖句を思い巡らした。二人は自然に小さい者と共にということをしているように思う。

自分は鈍感で、まだまだだと思う。自立支援法反対に来た障がい者の方が喉からしぼり出す叫びを

聞いたときは、そうだと共にあることができた。他者に育てられ、自意識過剰ではなく自然体でこ

の聖句の人のようになりたいと思った。
 
 続いて、別の方から発言がありました。私は今日の聖書朗読箇所の詩篇6編で、「嘆き疲れて夜

毎涙は床にあふれ」という嘆きの祈りを読み、このような嘆きと祈りをせざるを得ない人がいるの

だということを思いながら、同時にマタイ25章を聞いた。また今歌った21-540の3節の歌詞「共

に嘆き、共に泣いて、互いの重荷を担い合おう」が心に響いた。してあげる、してもらうという関

係ではなく、共に嘆き、共に泣くという、自分と他者という二分化した対称的な関係を超えた自他

一体という共感による結びつきがあるように思う。この人を助けてあげようと思うと、少し経つと

負担になり、疲れてしまう。そうではなく、この人と共にいることでゴタゴタするけれども豊かさ

を感じられると、負担ではなくその人との関係を大切にしていくことができる。そういう不思議な

体験をすると、自分と他者を超えた豊かさを感じる。