なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

待降節説教「待ち望み」

    「待ち望み」イザヤ書40章-11節、第二ペテロ3:8-14、
                      
                     2013年12月15日(日)礼拝説教

・今日はローソクの灯が三つになりました。アドベント第3主日で、来週の日曜日には4つのローソクに灯がついて、クリスマス礼拝になります。

アドベントの時期はイエスの誕生を待ち望む季節です。待ち望むということ。イエスの到来を待ち望むということ、それは私たちにとってどういう出来事なのでしょうか。待ち望む者には希望があります。喜びがあります。

第二次世界大戦におけるナチスホロコーストユダヤ人の大量虐殺において、強制収容所に入れられたましたが、ガス室に送られなかった人たちの中で連合軍のドイツ解放によって戦後生き延びることができた人たちがいました。精神医学者のフランクルはその一人でありました。そのフランクルが自らの強制収容所体の体験を踏まえて『夜と霧』という本を書きました。有名な本ですから、みなさんも読んだことがあるかも知れません。その中でフランクルは、このようなことを記しています。

・「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。」
(中略)
「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が”なぜ”存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる”どのように”にも絶えられるのだ。」

フランクルは、「生きることから私たちが何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちから何を期待しているが問題なのだ」と言っています。私たちが期待することではなく、私たちが期待されているということが重要なのだと。ですから、あの強制収容所という極限状態の中で、例えば自分には完成させなければならない論文があるので、この状況を何とか生き延びなければならないという人。愛する家族が自分を待っているので、ここで死んではいられないという人のように、生きることがその人に期待していることを持っている人が、あの強制収容所という極限状態を生き延びることが出来たというのです。そうではなく、何かを期待する人は、その期待が悉く裏切られて絶望し、あの強制収容所という極限状態を生き延びることができなかったというのです。このことは、私たちにとっても、生きることについての根本的な問いではないでしょうか。

・待ち望むということは、私たちにとっては、イエスの到来を待ち望むということです。それは、この時期クリスマス、即ちイエスの誕生を待ち望むことであります。しかし、このことは、私たちが愛する者の誕生日を毎年祝うこととは違うように思われます。私たちが愛する者の誕生日を祝う事は、その人がこの世に生まれたことを想い起して、その生まれた日を祝うわけです。ハッピー・バースデイ・トウ・ユーと。けれども、イエスの誕生を祝うクリスマスは、イエスがこの世に生まれたことを祝うと共に、イエスが再び来たりたもう再臨の日を待ち望むという意味も含まれているのです。

・例えばこの待降節アドベントの有名な讃美歌、先ほども共に歌いましたが、「久しく待ちにし」の歌詞に注目したいと思います。

1、久しく待ちにし、救いの主来たり、とらわれの民を 解き放ちたまえ。喜  べ、インマヌ   エル来たりて救いたもう。
2、この世に打ち勝つ、力の主来たり、勝利のことばを 与えよ。 われらに。喜  べ、インマ  ヌエル来たりて救いたもう。
3、やみの夜をてらす 光の主来たり、暗き雲はらい 喜びをたまえ。喜  べ、インマヌエル来  たりて救いたもう。
4、われらの導く 望みの主来たり み国の扉を いま開きたまえ。喜  べ、インマヌエル来た  りて救いたもう。

・この讃美歌は讃美歌21の中の「教会歴 待降・再臨・アドベント」という表題のついたところに入っています。アドベントとキリストの再臨は一つなのです。

・先ほど読んでいただいたペテロの第二の手紙は、紀元100年から120年頃に書かれたものだと言われています。教会に宛てられた手紙ですが、パウロの手紙のように特定の教会に宛てられたものではありません。「公同書簡」と呼ばれて、複数の教会に回覧されて読まれたものではないかと考えられています。その宛先の教会では、おそらくこの待ち望む信仰が欠けていたのではないかと思われます。霊肉二元論に立つグノーシスの影響を受けて、すでに自分たちは霊の人として救われているので、肉における行為は問題ではないという理解から、道徳的な退廃が顕著で、キリストの再臨信仰も否定してようです。そのような教会の人々に宛てて、この第二ペテロの著者は、キリストの再臨の時である「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです」(12節)と語りかけているのです。そして続けてこのように書いています。「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう」(同)と。

・ここには、天と地を基盤とするこの世の延長に、その完成として、待ち望むべき神の日、キリストの再臨が来るとは言われていません。私たちの中には、この世、この社会は上昇して最後に完成を迎えるという風に考えている人もいるかも知れません。キリスト者の社会的な関わりも、そのことによってより平和な社会をめざし、作り上げていくのだと。残念ながらこれまでの人類の歴史において、そのように考え努力してきた人は数限りなくいると思われますが、この人間社会は必ずしも平和な社会に近づいたとは思えません。20世紀前半にはヨーロッパを中心に世界大戦が第一次と第二次の二度起きました。第一次大戦前のヨーロッパには宗教社会主義の運動があって、ある面で楽観的に、私たちの信仰によって隣人愛を実践して行けば、そのような人間の側の努力で、この地上に神の国が実現するかのように考えた面がありました。ところが、第一次世界大戦が起きて、そのような楽観的な信仰には戦争を止める力がなかったことが露わにされてしまいます。

・その時代を自ら生きたバルトは、人間の側の信仰に基づく道ではなく、神の真実としてのイエス・キリストにおいて、信じる者にも、今は不信にある者にも、全ての人のために既に実現成就している救済から生きる道への転換を促しました。

・最近わたしは友人に薦められて、豊田忠義さんという人が書いた『全キリスト教、最後の宗教改革者 カール・バルト』という本を読みました。この人によれば、バルト以外の多くの神学者は私たちの信仰に基づいている人間学的神学で、バルトは神の真実に基づいて神学的思索をしているところが根本的に異なっていると言います。

・第二ペテロの記事に帰りますが、先ほどの、「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう。」に続いて、13節に「しかしわたしは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいいます」と言われています。これは人間の営みの終わりから、新しい世界がわたしたちに到来することが信じられ、その「義の宿る新しい天と新しい地」を待ち望んでいるというのです。言葉を換えて言えば、神は平和の神であり、イエス・キリストにあって平和をわたしたちに与えたもう、と言うことができるでしょう。私たちはそのことを信じ、その神の与えたもう平和を、ただ信じ、証言することではないでしょうか。

・「平和を造り出す者は幸いである」ということも、何か私たちの人間的な努力で平和を造り出すことではないでしょう。もし人間的な努力に基づくとすれば、必ずそこにはおごり高ぶりが入って来て、努力しない人、出来ない人を非難したり、見下げたりしてしまうでしょう。

・待ち望みということは、何か消極的な感じに思われるかもしれませんが、むしろ、全ての人と共にイエスの到来を待ち望むことにこそ、真の希望と喜びが伴うのではないでしょうか。私たちは、ナザレのイエスの下に招かれ、集まって来た人々が、そこで享受した福音の喜びに、今招かれ、イエスと共にあることを信じたいと思います。その信仰によるイエスと共にあることの喜びを、時が良くても悪くても、日々の生活の中で証言して行くことに尽きるのではないでしょうか。「平和を造り出す者は幸いである」ということも、既にイエスと共にある平和に招かれた者が、その平和を証言する者の幸いを語っているように思うのです。そして、そのようなイエスの証言者として、イエスの平和が全世界に輝く日を待ち望みつつ、今年もクリスマスを迎えたいと思います。