なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(80)

 「読み聞かせる」エレミヤ書36:1-10、   2017年12月10日(日)船越教会礼拝説教


・今日のエレミヤ書の箇所は、待降節第2主日の聖書箇所の一つです。エレミヤ書による連続説教は31章1

4節まで行いました。クリスマスが終わって、またエレミヤ書による説教を続けていきますが、その時

は、今日の箇所エレミヤ書36章1-10節を飛ばしていきたいと思います。

・さて、今日は待降節アドベント)の第2主日です。待降節(アドベント)とは、もちろんイエスの誕生

を待ち望む時季です。

・待ち望むと言いますが、待ち望む人間は、どのようにして待ち望むのでしょうか。一口に待ち望むと言

いましても、中には自分からは何もしないで、ただ何かいいことがあるようにと、棚ぼた式に幸運を待ち

望むということもあるでしょう。案外そのような待ち望み方をしている人は、私たちの中にも多いのでは

ないでしょうか。

・イエスは「平和を待ち望みなさい」とは言いませんでした。「平和を造り出す者は幸いだ」とおっしゃ

いました。平和を期待し、待ち望んでいる人は沢山いるでしょう。しかし、そのような人がどんなに沢山

いても、平和は到来しません。平和を造り出す人がいなければ、平和はやってきません。平和を期待し、

待ち望むということは、その期待し、待ち望んでいる平和を造る出すことと結びついていないと、ただ単

に期待し、待ち望むだけに終わってしまいます。

・戦後私たち日本人は、あの戦争の悲惨さを経験して、二度と再び戦争はしてはならないと、心に誓いま

した。そして平和な国、平和な社会を求めて、戦後の歩みを始めました。憲法には第2章に「戦争の放

棄」と掲げ、第9条には「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」という項目を入れ、みなさんよくご存じ

のように、このような条文としました。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求

し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久

にこれを放棄する。 ◆~姐爐量榲を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の

交戦権は、これを認めない」。

・ところが、冷戦時代に入る矢先の、まだ日本にアメリカの占領軍が駐留している時に、朝鮮戦争が起き

ました。そこでアメリカの強い意志が働き、日本に警察予備隊がつくられ、それが自衛隊になり、実質的

な軍隊が、憲法第9条に反してつくられてしまいました。

・歴代の日本政府はアメリカとの同盟関係を重視し、憲法第9条を骨抜きにしてきました。それでも、さ

すがに憲法第9条があるところでは、国防軍を作ることはできません。安倍政権は憲法を改悪して、自衛

隊を軍隊にしようとしています。アメリカの世界戦略に基づく強い意志が働き、そのアメリカの意志に逆

らうことなく従順に従う日本政府なのです。二度と戦争はしてはならない、させてはならないという敗戦

後に圧倒的多数の日本人が心に誓ったはずの平和への願いが、ここにきて安倍政権によって崩され、戦争

のできる国造りが進められています。

待降節の待ち望みは、平和の主イエス・キリストの誕生を待ち望むことです。イエスが私たちの中にお

生まれになることを、今か今かと私たちは待ち望んでいるのではないでしょうか。ただ単に祝祭としての

クリスマスを祝うためにではなく、この今現実に、私たちが生きているこの場所に、イエスが誕生して下

さるということを、です。そのようなイエスの誕生を待ち望む者は、必然的に主イエスと共に平和を造り

出す者として立てられていくでしょう。

・そういう意味で、待降節の待ち望みは、ただ手をこまねいて待ち望むというのではなく、イエスの誕生

を、イエスの到来を文字通り真剣に、今この時を生きる私たちの現場で待ち望むことなのです。そして待

降節は、断食期間のような意味を持っていて、今までの世俗に染まってしまった己の生活を断ち切って、

主イエスを自らの中に迎え入れる、そのような準備の時季なのです。

・教会の歴史において待降節がどのように守られるようになったかといいますと、だいたいこのようにで

す。「5世紀頃ガリア(フランス)、スペインの教会は復活祭に行う洗礼の準備のためにレント(受難

節)があるのに応じて、顕現日(1月6日の公現日)に行う洗礼の準備の断食節を設けました。そして6

世紀に至って、この地方にもクリスマスが守られるようになると、この断食節は、その前の40日となり

ました。ローマ教会はこれを取り入れ、クリスマスの準備の時となし、11月30日に最も近い主日から

始まるものとしました。これを教会歴の1年の初めの時と見ることは8世紀から始まりました。アドヴェ

ントとは来臨の意で、主イエス受肉来臨すなわちクリスマスを迎える心の準備をするとともに再臨の準

備の時にもなりました。レント(受難節)ほどに厳重に断食節とはされていませんでしたが、来臨準備の

厳粛な時として、この期間には結婚式は行わず、祝祭の頌歌も用い」なかったと言われます(キリスト教

大事典より)。

・ところで、今日のエレミヤ書の箇所が、何故待降節の日曜日の聖書日課の中に入っているのでしょう

か。それは、この箇所も、神から逸れて生きてきたイスラエルの民に対する神への立ち帰りが語られてい

るからです。ですから、神を忘れ、神に背いて、世俗の生活にまみれて生きている私たちが、主イエス

来臨の時であるクリスマスを前にして、神に立ち帰って主イエスを迎えるための準備をする、そのような

待降節の聖書箇所にふわしいからではないでしょうか。

・1節に、<ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第4年に、次の言葉がエレミヤに臨んだ>と言われていま

す。<ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第4年>とは、紀元前605年のことです。この時、バビロニア

軍がカルケミシュでエジプト軍を撃破します。その後、バビロニア軍はシリヤ、パレスチナを自らの支配

下に置く行動に出ます。紀元前597年の第一回バビロン捕囚までは、7、8年しかありません。その

時、エレミヤはそれまで語って来た約20年間の預言を、神ヤハウエから「残らず書き記せ」と言われ、

バルクに口述筆記させたというのです。そしてその巻物を持って、エレミヤはその時何らかの理由で自分

エルサレム神殿に入ることが出来ませんでしたので、バルクにエルサレム神殿に行かせ、断食日に神殿

に集まった人々に読み聞かせるように命じます。その様子が9節、10節にこのように詳細に記されてい

ます。その個所をもう一度読んで見たいと思います。

・<ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエ

ルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食をする布告が出された。そのとき、バルクは主の神

殿で巻物に記されたエレミヤの言葉を読んだ。彼は書記官、シャファンの子ゲマルヤの部屋からすべての

人々に読み聞かせたのであるが、それは主の神殿の上の前庭にあり、新しい門の入り口の傍らにあった

>。

・このようにバルクが巻物を読み聞かせて語ったエレミヤの預言は、殆ど審判預言だったと思われます。

ですから、エレミヤはバルクにこう語っているのです。<この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが

大きいことを知って、人びとが主の憐みを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない>(7節)

と。これが、このエレミヤ書の箇所が待降節の日曜日の聖書日課に加えられた理由ではないかと思いま

す。

・待ち望むとは、手をこまねいてただ待ち望むということではありません。自らのあり様を問い、日常に

埋没している己を反省して、神われらと共にいまし給うという、イエスが私たちと共に生きていてくださ

るインマヌエルの現実に立ち帰ることなのです。教会はイエスを主と告白する群れです。船越教会も少な

い人数ではありますが、イエスを主と告白する群れです。

・政府によって戦争のできる国造りが進められ、現天皇生前退位天皇の代替わりの日が迫っていま

す。今の天皇安倍晋三首相より、その言動からして遥かに平和を大切にしているように思われます。け

れども天皇制は国民統合のスキルであり、戦争のできる国造りを進めるために、政府は必ずこの天皇制を

利用して、反対する者の言動を封じてくるに違いありません。

菅孝行天皇制に対抗する「陣地戦」論を展開しているそうです。私たちの身近な生活の中にある人と

人とが繋がっている場である様々な集団、保育園とか、学童とか、NPOとか、教会もその中に入ると思い

ますが、そういう私たちの現場を、天皇制に対抗する陣地にして闘うということではないかと思います。

戦前は地縁血縁、隣組の監視が強く、そのような現場はほとんどすべてと言っていいくらいに、天皇制に

絡め取られてしまいました。教会もまたしかりでした。

・先日大阪で私の支援会の出前集会があり、そこで村山盛忠牧師に講演をお願いしました。今週その村山

先生の講演も文章化して掲載している支援会の通信第20号が発行されます。是非読んでいただきたいと

思いますが、その中で村山先生は「教会の信仰」の大切さを述べています。日本のキリスト教には個人の

信仰はあるが、教会の信仰が希薄ではないかという問題意識を持っておられて、ご自分は牧会生活50年

の最後の10年間は、特にそのことを考えて、教会の信仰の大切さを大事にしてきたと言うのです。戦時

下の教会が国家によって統合させられて日本基督教団となり、積極的に戦争協力をしたのも、教会の信仰

がなかったからではないかと言うのです。イエスは主なりとの信仰によって一つの群れとなる教会であれ

ば、天皇は主ではないという、教会が天皇制に対抗する陣地になり得るでしょう。

・戦前とは全く同じとは言えないでしょうが、戦前の状況にこの国が近づいていることは事実だと思いま

す。そのような現在にあって、このクリスマスを間近に迎える待降節を、私たちの生活の只中にイエス

お迎えするための備えの時にしたいと思います。