なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(51)

   「命の道と死の道」エレミヤ21:1-10、2016年11月27日(日)船越教会礼拝説教

・「あなたはこの民に向かって言うがよい。主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに命の道と死

の道を置く」と、先程司会者に読んでいただいたエレミヤ書21章8節に語られています。

・このエレミヤの言葉は、バビロニアの王ネブカドネザルの攻撃によってユダの国とエルサレムが滅亡

しようとしている、紀元前587年の少し前という具体的な歴史的状況の中で語られたものです。つまり、

「今や(イスラエルの)民には、(エルサレムの)町に留まることにより剣、飢え、疫病によって死ぬ

か、それとも、降伏することによって少なくとも生命だけは救うのか、そのどちらか二つの可能性しか

残されていないので」(ヴァイザー)す。

・みなさんはそのような状況に置かれた時に、どちらを選択するでしょうか。エルサレムに留まって死

を選ぶか、それとも降伏して命だけは助かる道を選ぶのか。大変難しい選択です。

・私たち人間は、殆どの人が、人間が作る歴史社会との関わりの中で生活しています。そういう人間の作

る社会から脱出して、自然の中で自由に生きたいという思いをもって、ただ自然と向かい合って生きてい

る人もいるかも知れません。富士山のふもとで日常生活をしているN・Sさんのお連れ合いのMさんは、そ

ういう志をもって毎日自然と向かい合って生活されているのではないかと思います。そのMさんも、長い

間人間社会の中でもみくちゃにされながら生活してきて、ある年になってやっとそういう生活ができるよ

うになったのではないかと思います。

・しかし、そのような人はごくわずかな人で、殆どの人はこの人間社会の中で、生まれてから死ぬまでも

みくちゃにされながら、一生を過ごしているのではないでしょうか。そういう意味では、人間は社会的な

存在です。特に今日のエレミヤ書の箇所のように、国家滅亡の危機の中では、決定的にすべての人はその

影響を受けざるを得ません。戦時下及び敗戦時の日本社会で生きていた人々も、このエレミヤ書のイスラ

エルの民と同じ状況であったに違いありません。

・けれども、1945年の敗戦時の日本と、紀元前587年の少し前のユダヤの国とでは、状況は酷似しています

が、社会の姿が基本的に違っていました。敗戦時の日本は天皇制国家であって、天皇を絶対君主とする全

体主義的な社会で、戦争を批判する人は直ちに獄中に入れられてしまう思想統制下の社会でした。天皇

批判するなどということは絶対に許されませんでした。ところが、日本の敗戦時からしても2,500年以上も

昔のユダヤの国では、今日のエレミヤ書の前半になります21章1~7節によれば、王であるゼデキヤが人を預

言者エレミヤに遣わして、神からの預言を聞こうとしているのです。つまり、王だからと言って絶対者で

はないのです。

・エレミヤは、神の言葉を取り次ぐ預言活動において、ある時期までは人々から誹謗嘲笑されたり、迫害さ

れたりしてきましたが、段々とエレミヤの語る預言の真実が人々に理解されてきて、今日の箇所では、王の

ゼデキヤもエレミヤから神の預言の言葉を聞くために人を遣わす程になっていたことを意味しています。つ

まり、古代イスラエル社会には、王の権力さえ超える神の権威(神権)を認める可能性があったということ

です。ところが、戦時下の日本では、天皇の権威をさえ超える神権は認められていませんでした。ご存知の

ようにホーリネス教会の牧師の弾圧は、「天皇と神とどちらが偉いか」という官憲の問いに、ホーリネス

教会の牧師が「神です」と答えたことによります。当時天皇は「現人神」だったのです。

・日本で地上戦が唯一行われた沖縄は悲惨そのものでした。日本人は天皇の赤子であるという皇民化教育の

徹底と日本軍によって戦争の盾とされた沖縄の人々は、降伏するなどということは、最初から論外にされて

いたのです。徹底抗戦と自決それしかありませんでした。そのためにたくさんの人々が犠牲となって命を失

ってしまいました。

・そういうことを考えますと、国家滅亡の危機に瀕して、このエレミヤの預言<見よ、わたしはお前たちに

命の道と死の道を置く。この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲してい

カルデア人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる>が語られたことは、本当にすごいことです。こ

ういう言葉を語る人がいて、その言葉を信じて従って生きる人がいてはじめて、人の支配の下にではなく、

神の支配の下に、私たち一人一人が自由な主体的な人間の一人として立つことができ、すべての人の命と生

活が大切にされる、神が望みたもう平和な社会である神の国を待ち望むことが来るのでしょう。

・この選択にイスラエルの民はどのように応えたのでしょうか。バビロニアネブカドネザルに降伏して、

異教の地バビロニアで強制労働にかりだされながら、生き延びる道を選んだ人々がいたのです。国家滅亡に

より外国での生活を余儀なくされたのですが、それでも、捕囚の民イスラエル人は散り散りになって、自ら

の存在を失うことなく、一つの民として、約半世紀の捕囚の時代を生き延びて、バビロニアからペルシャ

に覇権が移ると、エルサレムに帰還することができたのです。彼ら彼女らを一つにまとめた力は、律法の

遵守と神の選びの徴である割礼でした。

・しかし、この律法と割礼は、それが与えられたイスラエルの民にとっても命の道であるのかどうか、はな

はだ疑わしいものでありました。その矛盾がイエスの時代のユダヤ人社会では明確に現れてきていました。

律法と割礼は、それによってすべての人に与えられている神の命の道を指し示すどころか、むしろ神の命

の道からしますと、それを阻害する力になってしまっていたのです。

・それは回心以前のパウロの生き様から明らかです。回心以前のパウロパリサイ派の律法学者でした。

そのパウロにとって律法と割礼は、人と人とを隔てる力であり、彼の人間的な誇りでした。それ故にパウ

ロはキリスト教徒の迫害者だったのです。異質な他者を迫害し、その存在を許さない生き方を促す律法や

割礼によって、どうして命の道が示されるでしょうか。キリスト者にとっての洗礼も、それを絶対化して

しまうと、他の宗教を信じている人を認めない排他主義になり、キリスト教絶対主義となって、すべての

人の命の道を示すどころが、死の道を示しかねません。

・さて、エレミヤは神からの預言としてイスラエルの民に、「見よ、わたしはお前たちに命の道と死の道

を置く」と語りました。この預言には、「見よ、わたしはお前たちに命の道と死の道を置く」とだけ言わ

れていて、その選択はイスラエルの民に委ねられています。そしてイスラエルの民の中には、この時「命

の道」に至るバビロニアへの降伏という選択をした人々がいました。それは今申し上げた通りです。そし

バビロニア降伏を選んだイスラエルの民ですが、その後の歴史を見る限り、その降伏が真に命の道に至

るものであったのかどうか、はなはだ疑わしいものがあります。人間の選択に、果たして真に命の道を選

べる力があるのかどうかという問題です。

・おそらくエレミヤは、そのことを予見していたかも知れません。いずれこの説教でも触れることになり

ますが、エレミヤは、エレミヤ書31章で神の「新しい契約」について語っています。出エジプト後にモー

セを介したシナイ契約でイスラエルの民には、「かく生きよ、そうすれば命に至る」と約束された、2枚

の石の板に記された律法、十戒が与えられました。しかし、エレミヤ書31章では、そのシナイ契約は廃棄

されるべき古い契約であると言われているのであります。

・<見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約

は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わ

たしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべ

き日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を

彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。その

とき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい

者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心

を留めることはない>(31:31-34)。

・「お前たちに命の道と死の道を置く」と言われたからといって、私たちは命の道を選ぶことができるで

しょうか。よくよく考えてみれば、私たちは、一瞬一瞬命の道と死の道の選択を迫られているのではない

でしょうか。軍事力による死の道を選ぶのか、軍事力によらない命の道、平和への道を選ぶのか。原発

よる死の道を選ぶのか、原発によらない命の道を選ぶのか。異質な他者を差別して死の道を選ぶのか、異

質な他者と共に生きることによって命の道を選ぶのか、資本と権力に従う死の道を選ぶのか、私たちすべ

ての創造者であり、救済者であり、永遠の命へと導く完成者である神に従って、命の道を選ぶのか。そう

いう選択を、私たちは日常の生活の中で、一瞬一瞬問われていると言えるでしょう。その一瞬一瞬におい

て、私たちは命の道を選んでいるでしょうか。死の道を選んでしまっていることも多いのではないでしょ

うか。「お前たちに命の道と死の道を置く」と言われたからと言って、私たちは自分だけの力では命の道

を選ぶことはできないと言っても過言ではありません。「かく生きよ、そうすれば命を得る」という人間

の定めとしての律法が、「胸の中に授けられている人」「心にそれが記された人」でないと、命の道を一

瞬一瞬選び取って生きるなどということはできません。

・けれども、その命の道を選び取って生き抜き、十字架に架けられて殺され、三日目に賦活したイエスが、

主イエスとして今も私たちの中に生きておられることを忘れてはなりません。私たちができなくても、主

エスは出来るのです。フィリピの信徒への手紙でパウロはこのように語っています。<わたしたちは神

の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」(3:3)と。そして<わたしは、キリ

ストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者

の中からの復活に達したいのです>(3:10)と、パウロは自分がイエス・キリストに捕えられているがゆ

えに、何とかしてイエス・キリストと一つになることを努めていると言っています。そしてフィリピの教

会の信徒たちにこのように語りかけています。<何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キ

リストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神

とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあ

ります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリス

トは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と

同じ形に変えてくださるのです。だから、わたしを愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠

である愛する人たち、このように主にあってしっかり立ちなさい>(3:18~4:1)

・今日からアドベント待降節に入ります。私たちは主イエスを待ち望みつつ、主にあってしっかりと立

ち、死の道へと私たちを誘導する、押し寄せて来るこの世の力に抗って、主イエスと共に命の道を一歩一

歩歩んでいきたいと願います。そのために、聖霊の導きが私たち一人一人に、そしてこの教会に、豊かに

与えられますように。