なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

(関西)労伝ニュースへの寄稿

 
 下記の文章は、関西労働者伝道委員会が発行している「労伝ニュース」159号の巻頭言として

書いた文章です。内容的にはもう大分前に寿地区ニュースに書いたものと同じです。今回「労伝

ニュース」の編集委員の方から依頼されて投稿しました。


    「支援の相互性」  北村慈郎(神奈川教区寿地区活動委員会委員)


 この巻頭言を書くように依頼された時、なぜ私がと思いましたが、釜ヶ崎と同じ横浜にある寄せ場

寿町に神奈川教区が設立した寿地区センターの働きに私が関わっているからではないかと思い、お引

き受けしました。

 さて、この機関誌の購読者の多くは、当事者である日雇い労働者や野宿者ではなく、この日本の社

会の中で毎日の衣食住に一応恵まれている人ではないかと思います。実は私もその一人であります。

そのような者が、この同じ日本の社会の中で命と生活が脅かされている日雇い動労者や野宿者の方々

とどのように関わったらよいのでしょうか。私は、若い時にこの問いぶつかって立ち止まってしまっ

たことがありました。

 神学校時代約5年間一人の友人と共に毎週一回、東京の足立区本木町にありました廃品回収によって

生活していた方々のセツルメントの聖書を読む集会に通いました。そのセツルメントのあった場所は、

日雇い労働もできなくなって、廃品回収でかろうじて生活を紡いでいた高齢の方々が集住していた地

域でした。私はセツルメントでの働きを継続したいと思い、神学校卒業後お願いしてその地域に一番

近い教会に赴任し、5年間主任担任教師として働きました。5年間の働きの中で、廃品を買い取る仕切

り屋の粗末な長屋で亡くなった廃品回収で生活していたお二人の高齢の方の葬儀を教会で出しました。

仲間の方々は「2人が死に花を咲かせた」と言って喜び、また羨んでいました。その方々との交流も段々

深くなっていくにつれ、彼ら・彼女らと私との関係を問われると共に、私が育ってきた教会が彼ら・彼

女らの存在とその問いにどう向かい合ってきたのだろうかという疑問がわいてきて、にっちもさっち

もいかなくなり、その教会を辞めざるを得ませんでした。それが1974年3月です。

 最初に赴任した教会を去ってから私が働いてきた教会は、日雇い労働者や野宿者とは場所的にも心理

的にも距離のある「住宅街の教会」(渡辺英俊)です。その構成員の多くはこの日本の社会の中で毎日

の衣食住に一応恵まれている人たちです。そのような教会の牧師として働きながら、長い間日雇い労働

者(廃品回収で生活をしていた人たちも日雇い動労者です)や野宿者との直接的な関係は持ちませんで

した。けれども、彼ら彼女らとどう向かい合うかを自分の重要な課題として考え続けていました。1995

年4月に母教会である紅葉坂教会の牧師に招かれました。今もそうですが、その頃紅葉坂教会の信徒の多

くの方々が、ボランティアとして寿地区センターとの関わりを持っていましたので、牧師である私も必

然的に寿地区センターの運営母体である神奈川教区寿地区活動委員会の委員になりました。そこで若い

時に立ち止まらざるを得なかった問題を、私は改めて問われることになりました。この社会の中で生業

を得ている者と生業を奪われている者とのが、両者を隔てる壁を突き破る方向でどう向かい合うことが

できるのかという問題です。私は二つのことを考えています。一つは、日雇い労働者、野宿者の命と生

活がこの社会で守られるための支援者による日雇い労働者、野宿者への支援です。ですから、私も出来

るだけの支援をしていきたいと思っています。もう一つは、支援者が、日雇い労働者、野宿者の存在か

らの問いを受けて、人から命と生活を奪うこの社会の矛盾に気づかされ、この非人間的な社会に生きる

自らの人間としての尊厳を回復するための、日雇い労働者、野宿者による支援者への支援です。この支

援の相互性がなければ、私たちの活動の意味は半減してしまうのではないかと、私は思っています。