黙想と祈りの夕べ通信(319)復刻版を掲載します。2005年11月のものです。
昨日は大変寒い日でした。毎月一回開いています鶴巻での集会に、昨日はクリスマスということで私た
ち2人を入れて6人が集まりました。この日はクリスマスでしたので、たまたま沖縄のMさんから個人誌
が送られてきて、そこにパウル・ゲルハルトの讃美歌「まぶねのかたえに」の歌詞の紹介によるクリスマ
スメッセージが掲載されていましたので、それを紹介させていただきました。
Mさんによると、この讃美歌は15節まであり、日本の讃美歌第一編では107番4節まで、讃美歌2
1では256番5節まですが、ドイツのプロテスタントの讃美歌では9節までとなっているそうです。そ
のドイツの讃美歌の9節の歌詞は以下の通りです(Mさん訳)。
ただ一つのことをあなたに望みます。
私の救い主よ、どうか拒まないでください。
私がいつもあなたを、心の中で、
私の傍らに、私のそばに、見いだせますように。
そして私があなたの飼葉桶となれますように。
私のもとへ来て、あなたご自身を横たえ、
あなたの喜びをすべて与えてください。
Mさんによれば、〈最後の9節で、一つの願いが表明されています。それは、イエスにいつもそばにい
てほしいという願いです。そしてその思いを、自分自身が「飼い葉桶」になりたいという言葉で表現して
います。〉というのです。
「自分自身がイエスの飼い葉桶になりたい」。心に響くことばではないでしょうか。
黙想と祈りの夕べ通信(319[-6]2005・11.6発行)復刻版
去る10月30日(日)に教会バザーが行われました。ちょうど30日の礼拝は宗教改革記念日礼拝でしたの
で、礼拝の中に聖餐式がありました。聖餐式のある礼拝はいつもより時間が長くなります。バサーの開始
が12時になっていましたので、私はできるだけ説教を短くするように努めました。努力の甲斐があって、
聖餐式のある礼拝としては比較的早く終えました。しかし、それでも礼拝後に礼拝堂をバザーの会場にす
るための準備に時間がかかり、バザーの開始は12時を過ぎてしまいました。天候も快晴という訳にはいき
ませんでしたが、何とか最後まで雨が降らずに行うことができました。バザーのいいところは、もちろん
売り上げによって献金ができることですが、それだけではなく、近所の方々をはじめ多くの方が教会に来
てくださることです。今年も随分沢山の方々が来てくださり、出会いと交流の時を持つことができまし
た。そしてさまざまな奉仕に関わる私たちにとっては、たとえ限られた時間とは言え、共に働く機会を与
えてくれます。このことは私たちにとっても大変貴重な時間ではないかと、私は思っています。
私は紅葉坂教会に1995年4月に着任して以来、宣教方針として「共生と自立の場としての教会」という
ことを言って来ました。その際私たちは他者との関係の中で、神関係を中心として「発見」→「出会い」
→「変容」→「共労・共生」を不断に繰り返して行くということも示して来ました。共生とは共に労する
ことでもあり、バザーで私たちが共に働くことも共生の擬似形態を体験していると言えるのではないでし
ょうか。教会に集っている仲間ですから、私たちはお互いにある程度相手を知っていますが、共に働くこ
とによって、それまで気づかなかった他者の新しい発見をしたり、自分も他者に分かってもらえたり、ひ
とつの目的に向かって共に働くことの喜びと苦しみを味わったりすることができるのではないでしょう
か。それがバザーのひとつの大切な要素ではないかと思います。
私が紅葉坂教会の前に牧師として働いた名古屋の教会ではバザーはありませんでした。私が紅葉坂教会
に来た後で、何回か名古屋の教会でもバザーをしたことがあるようですが、私がいた18年間は一度もバ
ザーはしませんでした。それは、前任の牧師が教会ではバザーのようなことはしない方がよいという考え
方をもっていたからです。教会は礼拝を中心として集まる集いであり、バザーのようなことを行うところ
ではないということだったと思います。確かにバザーもできるだけお金を捻出しなければならないという
ことですと、無理するところが現れてきて、共に働く喜びどころではなくなるということが起こりえま
す。「利潤」追求ではありませんが、そちらの方が強く出ますと、どうしても企業的な考えが入ってくる
ことがあるからです。一生懸命働く人が、余り働かない人を非難したりしだすと、何のためのバザーなの
かが分からなくなってしまうということも起こり得ます。バザーのような労働奉仕は自主的なものであっ
て、強制されてするものありません。ですからそんなに無理しない程度にバザーが教会行事としてあるこ
とは、上記のように意味あることだと、私は思っています。けれども、ではバザーは教会にとって絶対に
必要なのかと言えば、そうではないと思うのです。余りにも負担が大きくなるようならば、それを無理し
てまでバザーを行わなければならないということでもないでしょう。私たちの教会がこれからも楽しみな
がらバザーをして行くことができたら幸いに思います。