なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(49)

   マルコ福音書による説教(49)マルコによる福音書12:13-17、

・今日与えられたマルコによる福音書の「納税についての問答」は、福音書のなかに残されていますイエスに関する物語の中では、直接政治にまつわる問題(国家に対する態度)に関係する唯一のものと言えるでしょう。特に17節、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉の解釈をめぐって議論のあるところです。また、同じ納税のことが取り上げられていても、先程司会者にマルコのテキストとともに読んでいただきましたロ-マの信徒への手紙13章の方は、マルコの箇所のイエスの態度とは反対のように受け取られますから、イエスパウロにおける政治に対する態度の相違があるのではないかというような議論もあります(荒井献「新約聖書における『教会と国家よ』の問題」、『初期キリスト教史の諸問題』187頁以下参照)。

・マルコによる福音書におけるイエス理解の特徴の一つに、今までも何度か触れていますが、イエスの言葉や行為が人々にとって驚きそのものであったということを挙げることができます。今日の記事の最後のところにも、「彼らは、イエスの答えに驚き入った」とあります。この驚きという態度は、奇跡行為の場合に必ず伴うものですが、マルコによる福音書では病人の治癒や悪霊追放や海上歩行というイエスの奇跡行為だけでなく、イエスのすべての振舞いや言葉に対する人々の反応に拡げられて出てきます。この驚きという態度が言い表わしているものは、何か幽霊のような異様なものと出会った時の驚きとうよりも、今まで経験したことはないが、何かそこに本当のもの、新しいものがあるのではないかという場合に生じる人間の態度ではないかと思います。その驚きによって、今までの自分と今の自分が立っている地盤が質的に変わってしまうような、過去を古きものとして捨て去ることのできる力に捉えられる、そのような経験が驚きに伴うように思われます。

・この納税に関する問答は、政治(国家権力)に対する態度においても、イエスは私たちに根本的な新しさ=真実さをもたらす方であるということが語られています。イエスの出来事は人間の経験のすべての領域を根底から問い、かつ新しさ=真実さをもたらすが故に、「福音」なのです。ところが、私たちの方から聖書に求めているものは、必ずしも聖書そのものの主張ではない場合がよくあります。国家や政治の問題は、直接信仰と関わるものであるかどうか、疑わしく思われる方もあるかも知れませんが、そのように思う時に、すでに信仰についてある特定の考え方をもってしまっていると言えましょう。

従軍慰安婦のことが、日本の国の戦争責任との関係で問われてきました。今もまだ解決していません、この問題にも、国家の存在が大変大きく関わっています。日本人兵士として個人的に慰安婦を傷つけたという人も多いと思います。個人としては、個人としてその責任を取らなければならないでしょう。と同時に、あの戦争は当時の日本の天皇制国家が行った行為なのですから、日本の国家としての賠償責任はまぬがれません。もしそこで、私たちが日本人としてそういう国家の賠償責任をあいまいにしてしまえば、極端に言えば、国家が何をしてもその責任をとらなくてもよいということになってしまいます。

・そうしますと、私たちにとりましても、日本の国家は神聖不可侵の存在ということになってしまいます。そういうことにならないためにも、国家の存在をしっかりと捉えておかなければなりません。そして、私たち一人一人の人間に押しかぶさる形で、私たちの命や生活を脅かすものとしての国家は、ない方が良いわけですから、そのことをきっちりと考えておく必要があると思います。

・そのような問題を含む私たちの生きている現実を踏まえながら、この納税問答におけるイエスの態度について思いめぐらしたいと思います。「ファリサイ派やヘロデ派の人数人」が、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないでしょうか」と、イエスに問うたと言われます。

・この質問を理解するためには、当時の状況を少し説明しておかなければなりません。皇帝とは、ロ-マ皇帝のことです。イエスの時代のユダヤやサマリヤを含むパレスチナ南部は、ロ-マの直轄地でした。イエス誕生物語にも出てきますヘロデ大王の死後(B.C.4),王国は三分され、パレスチナ南部はアケラオに与えられました。アケラオは王として失格であったらしく、A.D.6年、ロ-マが介入し、直接支配するようになりました。初代の総督クレニオの最初の仕事は、その国の人口を調査することでした。人頭税を徴収するためでした。その時、ガリラヤのユダという人物が激しく反抗し、納税拒否をスロ-ガンに掲げて一揆を起こしたと言われます。それ以来、人頭税に対してどういう態度を取るかが、ユダヤ人にとっては極めて重要な問題となったと思われます。特に民族主義者であったゼロ-タイ(熱心党)に属する人々は、ユダの運動を何らかの形で継承していたと思われますから、イエスが納税拒否をすれば、ゼロ-タイと同様に見られたに違いありません。ですから、イエスのことをロ-マに報告し、反ロ-マ運動の首謀者として逮捕させることが出来ましたし、納税を肯定すれば、ロ-マの支配を嫌悪していた大部分の民衆を敵にすることになります。その意味で、この問は、イエスにかけられた罠と言えるわけです。 こういう状況の中で、イエスは政治的権力に対する態度を具体的に問われることになったのです。

・イエスの答えは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」でした。このイエスの言葉が、政治的領域と宗教的領域を区別して語られたものでないということは、今日多くの学者によって承認されています。「貨幣にはカイザル(皇帝)の像がついているのだから、それをカイザル(皇帝)に納めたらよかろう。しかし君らの敬虔な質問者たちは、『神のものは神に返しなさい』という一層高い義務を考えるべきであったのである」(ディベリウス)ということなのでしょうか。それとも、「神のもの」を「神殿税」と解釈して、「君たちユダヤの支配者たちが神殿支配体制を容認しているならば、論理的に言って、ロ-マの支配体制を承認すべきであろう」と「神殿支配体制を認めた上での」ファリサイ派やヘロデ派の者からの問を、「イエスは彼らと同一論理水準に立って答えることを拒否した」ものなのか(田川建三)。あるいは、岩波訳新約聖書で、佐藤研さんは、「カエサルのものならカエサルに、つまり『神様』のものなら『神様』にお返し申し上げよ」と訳して、このように注釈しています。「直接税を納めるために使用されたデナリオン貨幣には、カエサルティベリウスを神格化する銘と像が刻んであった。とすると、この句で『神様』と訳した言葉は、ロ-マに追従する質問者たち~すぐれて「ヘロデ党」に該当~が偶像崇拝的に「神」と認めるカエサル、の意であると思われる。つまり、この句は、質問者たちの実質的な皇帝崇拝承認を暴露する皮肉であって、彼らの質問にまともに答えたものではない」と。

・私たちは、イエスの振舞い全体から、この言葉を理解すべきではないかと考えます。福音書において見る限り、イエスが当時のユダヤ人のなかで特に中心的に関わったのは、その社会の中では周縁に追いやられていた人々でした。病人、貧しい者、罪人、取税人、遊女たちです。彼らの立場は、ロ-マによる支配と共にユダヤエルサレムを中心にした神殿支配体制からも二重に支配されていました。従って、外国の国家としてのロ-マ帝国であろうと、ゼロ-タイが夢見ていた神政政治的なユダヤ人国家であろうと、彼らにとっては国家の存在はそもそも抑圧機関に過ぎなかったのです。そういう彼らと交わっていたイエスが、この納税に関する問に答えているのでありますが、その答えは、直接的にはほとんど国家について触れていないと言えるのではないでしょうか。だからと言って、イエス無政府主義的な考えが積極的にあったかどうかは分かりません。おそらくイエスにおいては、そういう政治体制について云々することは全くなかったのではないかと思います。むしろイエスは、ロ-マの支配体制にも、ユダヤの支配体制にも、冷淡な態度を取ることによって、人々の目を神のもたらす将来に向けさせようとしたのではないかと考えられます。その神の将来とは、神と神の支配の到来です。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」というイエスの宣教を要約したマルコの言葉は、イエスが群衆に何を語ろうとされたのかをよく伝えています。そのことが決して現実肯定を引き出すものではなかったところに、イエスの独自性があるように思われてなりません。ロ-マとユダヤの支配層から二重に支配されていた人々を、その抑圧された状態に押し止めて、現実の国家による支配体制を是認するのではなく、神と神の支配を仰ぐことによって、政治支配そのものを相対化してゆく力がイエスにはあったと思われます。

・人間の現実世界に対する徹底的な絶望が絶対的な肯定へと転化する、そのような不思議な力をイエスはもっておられたように思います。将に来たらんとする徹底的に彼岸的な神と神の支配が、この世の現実世界を審くことによって救うのだという福音のリアリティ-(現実性)がイエスにおいて具現していると言えます。納税をめぐる国家の問題の渦中にあって、ロ-マであろうと、ユダヤであろうと、民衆を支配する国家権力に対しては、全くそれを無化するごとく、人々を神と神の支配の前に招かんとするイエスは、政治支配者にとって最も恐ろしい存在であったにちがいありません。一つの社会体制の中で安き慰めを与える宗教ではなく、人間の歴史に終焉をもたらす神の支配の到来は、国家体制そのものの終焉でもあるからです。そのような神の支配としての神の国を待望する者は、政治権力からも自由な者であるからです。

・ゼロ-タイのような政治的運動であれば、力でつぶすことが出来ますが、イエスとイエスの弟子たちは、そういうわけにはいきません。力では根絶できない何かがありますから、余計支配者にとっては恐ろしく感じられるのでしょう。十字架によるイエスの処刑が、新しいイエスへの信仰と服従を呼び起こしたように、ひとりの弟子の存在が、その弟子を迫害して殺しても、次々に新しい弟子たちを呼び起こすことになったからです。

・政治権力は、そのようなキリスト教を迫害することから国教化することにより、自らの内にキリスト教を取り込むことによって終末論的な信仰を世界観化させて行きます。終末論的緊張感が失われて、その時の政治権力に従順なクリスチャンとなっていった時、すでに教会はイエスから離れてしまうことになりました。

・「皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)肯定に、神のものは神に…」と言って、ロ-マとユダヤの支配者たちによって殺され、復活したイエスを信じる者は、そのイエスを主とする信仰をしっかりと持たなければなりません。私たちは、今自分の場所にイエスが立たれたならば、どうされるだろうか、真剣に祈り求め、自らの生活のただ中においてイエスを主と告白する勇気を持たなければなりません。

・体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)というイエスの言葉は、私たちにとりましても、重い語りかけであります。