なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(61)

         船越通信癸僑院  。横娃隠嫁6月10日         

・6月3日の日曜日は、礼拝後テーマ話し合いが「わたしが疑問に思うこと」と題して行われました。発題はMさんでした。用意したレジメの沿って発題をしてくれました。~ケ朸飢颪悄 申し訳なさ(北村先生が紅葉坂教会時代に2度船越教会の代務者をしていながら、船越教会を応援できなかったこと)。・敬服と誇り(今の教団の状況の中で、免職牧師の北村先生を船越教会が牧師として招聘したことは敬服に値することであると共に、その船越教会で共に教会生活を送れることを誇りに思う)。・小さいからこそ本当のことが出来るのでは…(少人数の船越教会だから本当のことができるのでは。それが何か、まだ具体的イメージはないが、自分にとっての船越教会はストレスフリーである)。学校から~教会と社会をつなぐもの~。この部分がMさんの発題の中心点ではないかと思います。私の理解でまとめなすと、以下のようになります。

・学校から「キリスト教と社会、教会と社会」の問題を考えていくとき、自分も若い時にそうだったが、社会との関わりに共感と関心を持って、社会的な運動にコミットして社会を変えていこうという以前によく取られたスタイルでは難しい現実がある。・例えば「福音派と社会派」という二項対立では見えてこないものがあるのではないか。・子どもたちの現実から社会が見えてくるように思う。現代の日本の社会は、不安に満ち満ちた社会で、やりたいことが分からないという子も多く、全体にブランド志向。・他者との比較で安心を得る。それは自分(個)を押し殺すことになっているのではないか。・グローバリズムによる不安定経済で、前近代へ逆行しているのではないか。格差による実質的身分制が子どもたちを支配しているようだ。・恢復はどこに~教会の出来ること、キリスト者の出来ることは何か?・教育現場で子どもから「先生どうなの?」と問われても、答えられないことが多いが、ただ出来る限りそのような子どもの問いに耳を傾け、聞くこと。時間を割いてその子に寄り添う(かっこいいが)ことではないか。・聞いてあげたから、寄り添っていったから、社会の枠組みが変わるわけではないが、社会のあり方が変わることを願いながら、日常的なそれぞれの現場で、問いを持ちながら生きていくことではないか?

・M人さんの発題の後、私が司会をして、皆さんから意見を聞きました。出た意見を羅列しておきます。
・新聞で読んだことがある。京大の霊長類研究所だったが、ゴリラや猿は共鳴集団として10匹から15匹の群れで行動するとまとまりがあると言われている。動物の群れは人間の社会の縮図でもあるので、15人前後が共鳴し合える集団で、ちょうど現在の船越教会がそうだ。

・自分で疑問を感じていることを、皆さんと考えたい。私は障がい児サポートのNPO代表理事をしている。最近労務士さんの指導で、労務管理の規則が出来上がった。このNPOでは宗教的、政治的なことは出さないようにしている。会報に書く文章も、自分としてはキリスト教的な言葉で書くと書きやすいが、キリスト教的な言葉では書かないようにしている。強いてかくす。

・自分もキリスト教的な言葉を極力使わないようにしている。自分は三代目のクリスチャンで、キリスト教的なものから脱却したいという思いがある。すべてが神とか聖書がというと、上っ面になってしまうので、むしろ関わりや生き様を大切にしていきたいと思う。

・ヘルパーをしていて、いろいろな人との出会いがある。援助する人とされる人との関係ではあるが、同時に、あなたと私は同じなのだという気持ちで、同じ人間として付き合いたい。上下関係がない形で。キリスト教関係の職場にあこがれていたことがある。キリストが嫌いになった。園長も教会では役員をしいて、自分の身を粉にしてやっていた。それが、お前らもやるべきだという無言の圧力になっていた。

・今おっしゃった上目線は、自分の中にある上目線を気付かないと、克服できない。10代後半から20代前半は悩みの中にあった。40歳を越えてから、どうでもいいんだと思えるようになって、楽に生きられるようになった。キリスト者としてどう生きるか?

NPOでは信仰を出せないということはよくわかる。最近は職場で宗教を出せない状況がある。公では、特定の宗教を出すのはダメという傾向が多くなった。自分が某テレビ局で仕事をよくしていたとき、私はキリスト者であることを隠さなかったが、創価学会員や真如苑の人は明らかにしなかった。言葉で神の愛を語っても、何を言っているのかということになる。隠さないで信仰が自分の生きていく支柱であることを示す。敢えてキリスト教の話はしないが、いろいろな人から相談を受けていた。仕事場で自分のスタンスをはっきり出すのは厳しい。隠しいる人が多かった。

・長く勤めたが、宗教関係の所ではなかった。自分がクリスチャンであることは言っていた。教会に行くから、日曜日午前中はダメよーと職場の人に言って、それで済んだ。自然体でやってきた。

・普通にしてきた。早めに受洗した。ある時、英語の先生に、お前教会に行っているのか。クリスチャンなら、讃美歌うたってみろ、と言われ、傷ついた。社会に出て、クリスチャンであることは損かなあーと思ってきた。高校はキリスト教主義の学校で、礼拝中黙祷しない生徒の頭を教師が聖書でたたいたことに躓いた。クリスチャンであることより、教師が問題。大学もキリスト教主義大学に入った。キリスト教の中で守られているかもしれないという自分の勝手な思いと大学での生活にギャップがあって、大学を辞めた。最近、歴史がある仏教は社会で求められているように思う。仏教と神道は社会に認められて、生活の中に入り込んでいるが、キリスト教は違うように思える。

・この週は、5日(火)に常置委員会出席。6日(水)は朝から出かけ兵庫教区センターで「求めすすめる連絡会」の世話人会に出席し、その日の内に鶴巻に帰りました。そして7日(木)は、私の裁判の訴訟対策委員会があり、6月25日に予定されています準備手続き(裁判官と双方の弁護士のみによる)に出す準備書面について検討しました。