なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(164)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(164)」復刻版を掲載します。以下に触れています吉本隆明氏も、

今は天上の人になっています。
      

         
        黙想と祈りの夕べ通信(164[-7]2002.11.17発行)復刻版


 ここしばらく拉致の問題が私たちの関心になっていますが、そういう中で現在、在日韓国人朝鮮人

方々、特に民族服で通学していた子どもたちが通学の途中は民族服ではなく日本の子どもたちと同じよう

な服装をして、学校で着替えなければならないという状況になっていると言われています。拉致問題の怒

りを心無い日本人が在日の方々に向けて、嫌がらせが行われているからでしょう。そのような行為は、吉

本隆明流にいえば、日本人の一部が今も国や民族のもつ迷妄に陥っていることからくるものと考えられま

す。最近の吉本の著書『超「戦争論」』によれば、私たちが何を根底にしてものを見、行動するかという

問題に繋がってくるものと思われます。法や政治や社会の倫理性からものを見るならば、国や民族の枠組

みは越えられず、上記の迷妄から自由になることは難しいに違いありません。吉本は、「『法』とか『政

治』とか『社会』とかの倫理性というものを相対化するとしたら、『人間の《存在の倫理》』という観点

から行うほかない」と言っています。それが今日生きる我々に必要な「根底倫理」だというのです。素朴

に言えば、一人一人の生命の尊厳を大切にするということでしょう。そしてその一人一人の生命の尊厳を

損なうような力を批判的に避けるということでしょう。拉致問題によって在日の人たち、特に子供たちが

我々日本人によっていわれのない苦しみ、悲しみを受けることがあってはならないと思います。身近にそ

のようなことが起こらないように気をつけていきたいと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から発言がありました。今日の教会のバザーが終わって、まだ数時

間しか経っていない。中古衣料の値段付けのときに、なるたけ安くと思いながら、若い人たちの付けた値

段が余りに安過ぎるので、一言いってしまったことを後悔している。バザーが終わって見ると、値段が安

かったからよく買ってもらえたように思う。自分も高齢化して、いやみの一つにもなるのかと反省させら

れた。「若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず。人のために働くよりも、謙虚に人の

世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること…」という「最上のわざ」

は、簡単だと思っていたが、難しく思われた。またバザーの中古衣料をかけるために、家の玄関に置いて

あったステンレスの竿が用いられてよかった。これからも出来るだけめぐり合わせを大切にして、年を重

ねて行きたいと思う。今日はいろいろと考えさえられた。

 別の方の発言がありました。私はいつもバザーの終わった後は、心地よい疲れを感じる。時の流れとい

うか、かつて中心的にバザーの働きを担った方々が年を重ねて退き、次の世代の方々が担うようになって

いる。それは、みんなが個性豊かに働きながら協力し合う「バラバラのいっしょ」ではないかと思う。厨

房に男性が多くなり、準備、後片付けと見事でした。以前とは違い、時代とともに変わってきていること

を感じた。教会員の働き手も変わってきている。無報酬の働きの豊かさ、素晴らしさを感じた。バザーに

参加できなかった方の中には寂しい思いをしておられる方もいらっしゃるかも知れないが、来年もこのよ

うなことができたらよかいなーと思った。

 ノルマにしばられない、その人が自発的に行う無償の労働は私たちの喜びです。けれども現実社会で

は、そのような無償の労働をする機会は多くありません。その意味で現在の当教会のバザーは貴重な営み

なのかも知れません。



          「死よりの復活」(『ルターの日々のみことば』より)

 
 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っ 
 ている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。」
 
                              第一テサロニケ4:14

 神は、霊においてもからだにおいても、わたしたちを死と罪の墓から引き出し、復活と生命へと導いて

くださいます。しかしもし、わたしたちが霊的に罪に死に、からだの上では、この世と自分自身に死ぬな

らば、どんな益があるのでしょうか。キリスト者は死んで葬られる以外にうまくゆく方法はないのでしょ

うか。決してありません。わたしたちは、キリストが死と墓からよみがえって生きておられるように、わ

たしたちも又生きることを信仰によって知っております。わたしたちはキリストとともに死に、キリスト

とともにその死の中に植えられているからです。キリストはご自分の死によってわたしたちの罪と死を滅

ぼされました。それゆえわたしたちは主の復活と生命にあずかるものとなり、それによってわたしたちの

魂にもからだにも罪と死がなくなります。キリストのうちに死がないのと同じです。

 これこそ死の思いによって恐怖におののくあわれなみにくい肉の弱さに対するわたしたちの慰めです。

もしあなたがキリスト者であるならば、あなたの主キリストは死からよみがえり、再び死ぬことはなく、

死は主の上に力をふるわず、それゆえにこそあなたの上にもなんの力も持たないことを知っているからで

す。
                          三位一体後第6主日の説教