なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(155)

 今日は「父北村雨垂とその作品(155)」を掲載します。
 
   
             父北村雨垂とその作品(155)
  
  原稿日記「一葉」から(その38)

  難解性の問題について(1) 
 
        川研 239号(1969年[昭和44年]11月)、240号、241号発表

 柳誌ジャーナル五十九号で、中村富二論を江端良三氏が書いていたが、さすがに立派なものである。私

は富二氏とは同じ横浜に生れ、現在もこの地に在り、氏とはよく会い、富二という偉大なる作家であるこ

とを十二分に知っているつもりであるが、遠隔にある江端氏のこの深い認識には、実に驚きと同時に全く

敬服させられた次第である。作家とその作品との関係について、これほど周到に書かれたものは、私は今

日まで余り見たことがなかった。その中で江端氏は、

  影が私を探してゐる教会です    富二

をとりあげて、「この句を一見の讀者として鑑賞するならこんな讀み方をするだらう。教会に集まる人間

は皆自分が敬虔な信者であることを微塵も疑ったりなぞしない。だが私は胸に十字を切っている間にも心

の中では、会社の乗っとりを策し、一日の儲けを算え、夕刻には二号のアパートへ行く時間をひねり出さ

うと苦心している。そんな私の祈りがいま靜かに教会の空気に流れている。このような魂を失った人間不

在の信者、ぬけがらだけを集めて得意になっている牧師、そこから生まれるこけいさ、そこに社会風刺と

人間批判がある」と、そして「現代の創作と批評における論理偏重の傾向は現代川柳でも必ずしも例外で

は有り得ない証明である」として、文学に於けるこの様な現代病は多くの人々をして自己の良心や感覚を

信じないで、論理を自己以上に信ずる迷妄を生んだとも評し、富二がこの句で意図したものは、もっと別

なものであるとして、「この句では信者や牧師に対する不信や非難よりも、むしろそのような生身の人間

の存在を肯定する作家のあたたかな人間性と慈愛の瞳を感ずべきだ」として讀者は純粋で温かな作者の哄

笑を聞きとることが出来る、と作者富二の思想を指摘し、そこから先は讀者が考える領域と断じ、なをこ

まごまとこの作者と作品を適切に分析している。

 以上のことは讀者の多くの人々はすでに本文で御承知のことと思うが、実はこの辺から私の標題である

作品の難解性について考へるひとつの方途があるのではないかとおもわれるのである。

 ここでまづ「難解性」とは何か、つまり難解という言葉の意味について定義しておかなければならない

が、私の書庫からは、たいした参考書もないので、私は私なりの考えで定義してみると次のようになる。

 難解ということは一と口に云えば解りにくいことであらう。つまり解らないことではなく理解すること

のむづかしさである。理解することに困難を感ずるとか、大きな努力がともなうということであると思

う。決して「不可解」と云うことではない。つまりこれを私と数学に例をとってみると、次のようなこと

になる。数学に暗い私の数学に対する理解力のようなものである。加滅乗除のような簡単なものはともか

く、所謂、高等数学となると、皆目といってよい位に私には解らない。その方程式などは、私にはどうに

も手に負えないシロモノでしかない。而し私がそうした方程式が解らないから、それがまちがっていると

考えたら甚だしい笑いものとなる。そこで私がそれについて、ひとつの階程をとおり、それなりの努力を

すれば解る筈である。その方程式が正しいものである限り、努力によって理解できる。これが数学に精通

している人ならば、私のような努力を改めてすることなく理解できることは当然の理であらう。

 要するに難解というコトバが意味することは、対象のもつ意味の理解にむづかしさ或は困難さがあると

いうことであって、その対象のもっている意味が混乱しているとか無いということがらではない。

 前述の数学の理解に関する私と他者との理解に差がある如く、対象のもつ意味に難易の状態に個々の差

があるということであると思われる。最近、殊に現代川柳作品 ― 現在の私はこの言葉にかなり疑問を

持っている者であるが ― 難解という言葉が目につくのであるが、私は前述した難解という言葉の意味

が或る程度の正しさがあるとすれば、さきの富二氏の作品「影」もまたある意味では難解作品ともとれ

る。つまり江端氏があげた最初の理解 ― この理解という言葉にも私にはなにかわりきれないものを感

じるのであるが、それは一応難解に対する理解という意味で ― にとどまる鑑賞者と、追補されたとこ

とまで理解の深さに到達する江端氏のような人と一つの作品に個々階程の差があって、そうした意味で

は、この作品「影」もまた難解作品の部に属するとも断じられるのではなかろうか。こうして作品によく

あることであるが鑑賞者がその鑑賞した作品に対して、よく理解したように思われたその理解が、実は意

外に中途半端な理解であったり、甚だしいものになると、全く見当ちがいの方向にあるような例も決して

少ないとは考えられない。また作者が意途した内包にむしろプラスアルファーがついた過理解鑑賞者が他

者の作品から作者の気づかなかった新しい意味を発掘することも十分に考えられる訳である。そういたこ

とは、その原因は一体どうした意味をもつものであらうか。私はそれを第一に作品構成の素材である言語

のもつ性格にあると考える。
                              (以下続く)